「安全安心」がうたわれる時代
日本赤十字豊田看護大学 島井哲志
かつて、心理学専攻の学部生としてはじめて取り組んだ実験が、ラットを箱の中に入れて、警告音の後に電気ショックを与えると、警告音が聞こえると不安を感じるようになり、電気ショックを受ける前に、不安によって危険を避けるという回避行動を分析するというものであった。卒業後も、大学院と研究員の7年にわたって、この危険と不安についての実験研究を続けることになった。
その実験では、ラットのいる箱の側面が透明になっており、いろいろな状況の中でラットがどのように行動しているのかを、実験のあいだ、暗い実験室の片隅から観察していた。コード化して記録したこともあるが、通常は気づいたことをメモする程度だ。しかし、測定だけでは見逃してしまうことを注意深く観察することこそが、すべての研究の基礎となることを身につける経験になった。
不安の強さにもよるが、不安をもたらす変化にはじめて遭遇すると、ラットは、典型的には、それまで続けてきた行動をぴたりとやめて、息を止めて目をみはり、その後に、空中に身体を伸ばして、ひげを動かしながらにおいをかぐ。そして、内側に満ちてきた不安に促されて、その状況から逃れるための行動に移っていく。
このように「危険と不安」の研究に明け暮れていたのだが、どういうわけか、しだいに、そして、東日本大震災の原子力発電所の事故後には、急速に、「安全安心」という言葉に取り囲まれてしまっていることに気づく。しかも、たいていは、十分に安全なのだから安心するようにというお知らせであったり、安全なのに安心しないのはおかしい、それは「風評被害」であり、けしからんことだという内容であったりする。「安全安心」が声高にうたわれる時代に、安心していない人間は、風評の「加害者」なのだと責められるのだ。
もともと、安全であるかどうかは、危険を示す兆候や状況から逃れて、ここなら全く危険がないと確認することで本人が判断するものだ。しかし、例えば、食品の安全性のような専門的な内容については、個人では判断が難しいために、食品安全基本法や政府の食品安全委員会といった、安全を評価する社会システムがあり、安全かどうかの私たちの判断は、かなりそれに依存している。この社会システムのもとでは、典型的には、安全は宣言されるものである。
そのように、安全が宣言された場合にも、一人ひとりは自分で安全かどうかという判断をするのが普通だ。その結果、社会システムが安全だと宣言しているのに、その情報を受け取った人たちの多くが、必ずしも安全だと判断せず、あまり安心を感じないという乖離が生じる場合もある。これは、本人にとっても十分に困った事態なのだが、安全を宣言する立場からはかなり厄介な問題となる。
そこで、今日では、安全を宣言する時に、安心も宣言してしまうことが考えられている。安全であるかどうかについて自分自身で判断せず、社会システムに頼っているのであれば、安全の先にある安心も、社会システムが保証することができるはずだという考えである。基本的には、安全を実感するように分かりやすく丁寧に説明しさえすれば安心するはずだと比較的単純に考えているのだろう。
安全性を評価する社会システムが有効に機能して十分な安全が確保され、その結果、信頼感が醸成されて、大多数の人たちがともどもに安心するという流れは、安全を保障しようとする人たちの理想のイメージであろう。しかし、例えば、世界に誇るべき安全な日本社会は、社会システムが安全を宣言することによって成立したものではなく、むしろ、日本人一人ひとりの人間性の高さに依存している。そこで、信頼されているのは、社会システムではなく、個々の人間性や道徳性なのである。
ところが、安全を宣言する社会システムの側から、安心していない人たちを見ると、知識や意識が不足しているために、安全であることが理解できていないようにみえる。そして、安全は既に宣言しているのだから、安心をもたらすためには、安全だという知識を浸透させるような、効果的なリスクコミュニケーションをするべきだということになる。そして、このリスクコミュニケーションが特に必要だとされている対象のひとつが、日本の国の中でも最も不安を感じる状況の中にある原発事故の影響を受けた地域に住む人たちである。
人間と動物を同じように考えているわけではないが、不安のもとにあるラットが何か手がかりがないかときょろきょろするのと似て、私たち人間も不安な状況のもとでは、新しい情報を求める行動をとる。日本の中で最も不安を感じる状況にある人たちは、切実に情報を求めており、精力的に情報を集めている。他の地域に暮らしていると信じられないが、地元の新聞の紙面のかなりの部分が放射能の情報に占められていたりする。それを読む人たちは、他の地域に住む人たちよりも、ずっと強く知識を得たいという意識をもっている。
四文字熟語でもあるかのように「安全安心」あるいは「安心安全」をうたうのは、それが連続していると考える立場なのだろう。しかし、実際には、人間は安心していない時こそ、安全かどうかの情報を求めるという、逆方向のダイナミックな関係もあり、安全と安心は一体ではない。そして、情報がほしいということに応えて、病院や市民団体、そして、行政も、食品や内部被ばくの情報を提供するようになってきた。専門家から、知識が足りず意識も低くて安全を理解していないと思われている人たちは、今では、知識も意識もきわめて高い人たちなのである。
したがって、この人たちに必要なのは、安心を納得させるためのもっと専門的な知識などではない。さらに言えば、もちろん、不安を鎮めて、より快適な気持ちになるためのリラックス法などでもない。危険を察知して、置かれた状況に不安を抱き、新しい方向性を探ることは、生存するために私たちに備えられている基本戦略である。この人たちに必要なのは、この基本戦略を生かし、不安をどのように活用して、今後の生活を続けていくのかという知恵である。
このように、さまざまな情報に気を配りながら、油断なく、注意深く、生活し続けることをサポートし、そのための情報をどのように提供していくのかが、「安全」と「安心」とが乖離している状況のなかで必要とされるリスクコミュニケーションだと考えられる。そして、さまざまな立場の少なからぬ人達が、そのために熱心に活動しており、そういう一人ひとりの働きへの信頼こそが、私たちの希望であるといえる。
不確定で流動的な状況の中では、一生懸命にしてきたことが無駄になるという経験も少なくない。どういう方向をめざせばよいのかも見失いがちである。そのような困難の中にある時代にこそ、熱意や信頼、知恵、希望といったポジティブなこころの働きが決定的な役割を果たす。一人ひとりの中にある、ポジティブなこころの働きの潜在的な力を活性化することこそが求められている。
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