心のうちに (Gさんへ)
太田茂行 (生活心理相談室 ナヌーク)
お元気ですか。
《 あぁ、おまへはなにをして来たのだと…
吹き来る風が私に言ふ 》 中原中也 「帰郷」より
わたしは気がつけば還暦を過ぎてしまいました。夭折した天才詩人の言葉を、自分の思いと重ねるのは気が引けますが、まさに光陰矢の如し、驚くばかりです。来し方の歩みは、自分が誰よりも知っています。中味を考えれば、茫々とした思いがわいてきます。 残りの時間をどのように充実させていけば良いのか。現在をすこしでもましな時間とするには、毎日をいかに過ごしていくべきか。自己実現と称して、結局はエゴ的欲求に突き動かされることが関の山…そんなトリックからいい加減に抜け出したい。しかし、自分に甘い生き方をそう簡単に変えられるだろうか、忸怩たる思いです。
若い頃に棟方志功の講演をどこかの大学で聴いたことがあります。黒板に《仕事》と板書して、「事に仕えるというのですなぁ。これがどういう意味だか、まだよく分からんのですよ…」とニコニコしながら語っていました。ころころと育った子どものような表情でした。あの笑顔は、今から思えば仕事と本気で格闘している人がもつ充実感から生まれるものだったのでしょう。仕事への愛情が伝わってきたのを覚えています。自分はあんな風に笑えるだろうか…後に、彼が亡くなってから、墓碑銘として「驚異(おどろき)モ、歓喜(よろこび)モ、マシテ悲愛ヲ、尽シ得ス」という言葉が刻まれているのを知りました。カタカナの味わいが何とも良いでしょう。
ちょうど、この版画家の名前に一字ありますが、志す、と言う言葉、最近おりおり考えさせられています。自分がやりたい事は何だろうか…そんな風に思った事は度々ですが、自分が志す事は何か、などとはほとんど考えた事がありませんでした。還暦は、暦が一回りする時です。いわば、振り出しに戻る時ですね。これからは持ち時間がそれほど多くなくても、仕切り直しをして、しっかりとやりたいです。すこしましな仕事ができるようになったならば、またあなたも喜んでくださるでしょうか。
「自分が欲するところではなく、神があなたに命ずるところを行え」というような聖書の言葉があるようです。自我の殻を破ることは、とうてい難しいことですが、少しは頑張ってみたいです。神の言葉は耳を澄まさなければ聴こえないと言われます。まず、その練習から必要ですね。神様は、いま、わたしに何を命じているのだろうか、それをまた、教条的でなく、活きた教えとして実行できるようになること…そんなことを望んでいます。
私よりずっと厳しく歩んできたあなたは、心の深いところで、私以上に、私が言わんとするところを汲み取ってくれているでしょう。どうもありがとうございます。あなたから、学んだことは数え知れません。これからも、私の中でそれらは大きくなっていくに違いありません。
先日、『トラウマと身体』という本をハコミ研究所の仲間と訳しました。とても良い本です。ソマティック心理学の実践の書であり、今後のトラウマセラピーの標準的教科書の一つにもなり得る本だと思います。しかし、こうした仕事で慢心しないように、月並みな言葉ですが、今後とも、ご指導ご鞭撻のほどどうぞよろしくお願いいたします。
また、折にふれ、お便りさせて頂きます。ではどうぞ、お元気で。
太田茂行 臨床心理士。日本EMDR学会(理事)および日本ハコミ研究所所属。東京目黒にて私設相談室主宰。専門はソマティック心理学とトラウマセラピー。
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