自分の視線、他人の視線
国立精神・神経医療研究センター精神保健研究所/認知行動療法センター 菊池安希子
仕事の関係で時々、海外出張することがある。行き先は、今年のオリンピックが開催されている英国が多い。出張中、気になることがある。それはたとえば、真冬のマンチェスターで、町の中をジーンズにタンクトップ1枚で快適そうに歩いている女性を見たとき。こちらは長袖の上にコートを着込み、マフラーをしっかり巻いているといういでたちである。あの人は寒くないのだろうか? そう思って見回すと、町ゆく人の中には、私と同じように厚手のコートを着ている人もいるが、半袖の人もいる。足下を見れば、ブーツもいれば素足にサンダルの人も。タンクトップの彼女が浮いているわけでもない。みんなバラバラなのだ。自分の体感温度に応じた格好をしているということだ。
そして日本のことを考えてみる。最近はとんと聞かなくなったが、「衣替え」という言葉があるように、一定の季節には大体同じような程度の厚着をする。夏なら薄着、冬なら厚着というように。吐く息が白くなるような日に、タンクトップで歩いている人を見たら、どうしたことかと思ってしまう。一部の血気盛んな小学生の腕白坊主たちを除けば、薄着をして出かけようとする我が子に母親は「寒そうに見えるからもう1枚、上に着なさい」と言うかもしれない。暑い夏にセーターを着ていたら「暑苦しいからTシャツだけにしなさい」とすすめるかもしれない。本人が平気だと言っても。薄着厚着の程度を決めるのは、体感温度ばかりではないのだ。日本に暮らしているからといって、体感温度がそろっているというわけでもなかろう。しかし、自分だけでなく、人の体感温度に与える印象にまで配慮するのである。冬場にノースリーブを着る若者も見かけるが、それでも手にはしっかりダウンジャケットを持っていて、何かのバランスをとっている。
これが今の日本流の個人主義なのかなと思う。個性的でありたいし、自己主張もしたい。だけど、「他の人の視線を基準にした」目に見えない「浮かない範囲」も守りたい。というか、つい、守ろうとしてしまう。結構、まじめに。配慮したり、空気を読んだり、察したりと気持ちが忙しい。もしかすると、個人主義の発祥の地である西欧諸国よりも、ちょっと厳しめに「浮かない範囲」を設定しがちかもしれない。
いつだったか何かの本に、日本人はもともと農耕民族だから、四六時中、田んぼ(仕事)が気になっているのが自然だし、共同作業もしなくてはならないから、「他の人の視線」を気にして生きるのが普通だというようなことが書いてあった。狩猟民族は、普段は好きにしていて、狩りの時だけ協力すればいいし、獲物がとれればしばらくはまた好き勝手にしていても問題がないのだという。IT時代の今になって、農耕民族時代のメンタリティで説明するのも、なかなか難しいかもしれないが、なるほどという気がしなくもない。
でも「他の人の視線」と思っていることって、本当は「自分の視線」なんだってことは忘れないほうがいい。息苦しいとき、落ち込んでいるとき、不安なときは、もう何が「人の視線」で何が「自分の視線」なのか、こんがらがって訳がわかんないかもしれないが、それもそのはず、その時、頭の中を巡っているのは、本当はすべて「自分の視線」なのだ。しかし、ありがたいことに「自分の視線」は、自分で変えられるのである。いろいろな人と接して視線の幅を広げてもいいし、いよいよ煮詰まってそれどころでない気分なら、認知行動療法というやりかたもある。これは自分の中でいっしょくたになっている感情や考えや身体の反応を、仕分けして、整理して、変えたり選んだりする方法。自分でやってみてもいいし、専門家に協力してもらうのもいい。
蒸し暑い7月のある日、アメリカからの帰りの飛行機で私は凍えていた。短パン半袖で冷房を最強度にしている10代の男子の横で、夏っぽい格好をしていた私は、航空会社に渡された毛布にすっぽりくるまりつつも、「次は絶対にセーターを持参する」と決意するのだった。自分の体感温度は、大事である。
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