「評論家」になるか「友だち」になるか
日本医科大学精神医学教室 上田 諭
アイドルグループの元メンバーAさんが少し前、自殺未遂をして話題になった。精神安定剤を多量に飲みリストカットしたとのことだった。これに対して、まもなく芸能界から異なる2つの反応があった。1つは、コメンテーターとして活躍する国際弁護士・八代英輝さんの「自殺の予告電話もしていて、こういう自殺未遂は本当に自殺する気はない。もう23歳なんだから、もう少し大人の自覚をもって生きてほしい」という意見であった。もう1つは、ふだん毒舌で鳴るマツコ・デラックスさんの「大変ねと思うわよ。人が自殺未遂を起こすんですからね。若いうちから働いているから、私たちにもわからない苦労があるのよ」という声だった。(若いうちから、を少々説明すると、Aさんのデビューは10代前半である。)この2つの意見は、このような社会的出来事に対してしばしば対立する代表的見方のように思える。
八代さんの意見は、冷静に客観的に突き放して見ている。評論家的見方である。彼自身、コメンテーター=評論家、つまり外部の第三者として話したのだから、それで当然といえば当然である。マツコ・デラックスさんの意見は、いわば友だちの見方といえるのではないだろうか。実生活で彼女がAさんの友だちであったかどうかわからない。コメントの内容からは知人のようではなく、やはり外部の第三者であるようにみえる。しかし、彼女は友だちのように同情し、Aさんの身になって感想を語っている。
このような自殺未遂の場面に、私たち精神科医や救命救急医などは日常的に多く遭遇する。そのとき、医師はどういう態度、どちらの態度をとるべきなのだろうか。私の患者さんの中に、リストカットをして医者に行きこっぴどく叱られる経験を繰り返す女性がいた。医師は「自分で切っておいてなんだ」「いい年をして……医療費の無駄だ」と叱りつけるそうである。それはある意味正論であるかもしれない。それは外部の「評論家」的態度から出た正論である。彼女は心の傷にさらに塩をすりこまれるような二重の辛さを味わっていたことは想像に難くない。われわれ精神科医ならどうだろう。良心のある者ならふつうはまず友だち的態度で接する。「大変なことがあったんだね」「そんなにつらかったの?」と語りかけることが多いだろう。ただし、精神科医でも叱る場合がある。もしAさんを長年受け持ち十分に信頼関係ができていれば、精神科医は八代さんのように叱咤するかもしれない。Aさんはそれを前向きに受け止めただろう。しかし、心の通じていない相手にいきなり「評論家的正論」を言っても、相手の心に届かず無益なばかりか、さらなる自殺未遂を呼び起こしかねない。
いまの世の中全般はどうだろうか。なにか社会的事件が起きた時メディアにあふれる感想はおしなべて立派な「評論家」的意見が多く、「友だち」的意見は少ない。Aさんに対するマツコ・デラックスさんの感想が、ひどく新鮮に思えたのはそのせいだ。少し減少したとはいえ自殺の多さは現代日本の大きな社会問題になっている。その原因の一つが「評論家」が増えたから、というのは考えすぎだろうか。逆に「友だち」が増えたら、確実に減りそうな気がする。
私たち精神科医もいま反省を迫られている。自殺の原因となるうつ病やうつ症状に対する精神科医の役割が重要視されているからである。精神科医にかからないから自殺に至るということが問題なのではなく、精神科医にかかっていながら自殺する人が多いことが大きな問題になっているのだ。自殺の問題に臨床・研究両面で取り組むある精神科医は、精神科医の診療が「ドリフターズ診察」になっていないかと警告を発している。ドリフターズ診察とは、「8時だよ!全員集合」というテレビ番組でカトチャン(加藤茶さん)が画面から子ども向けに「歯みがいたか? 着替えしたか? トイレ行ったか? ――じゃまた来週!」と呼びかけていた、あのやり方である(若い人には伝わらないか)。かなりの精神科医が「食欲ありますか? 眠れますか? お通じありますか? ――じゃまた来月!」式の診察をやっていると彼は批判し、これでは患者が自殺の悩みを語るどころではないと訴えている。もし事実なら、「評論家」か「友だち」か以前の問題であるが、ここまでひどくはなくても、みかけのうつ病増加による受診数急増とクスリ偏重で、話をろくに聞かない(あるいは聞けない)精神科医がメディアや患者からも批判されている。これも自殺の多さと何か関係があるかもしれない。精神科医の中でも「友だち」は確実に少なくなっていることは間違いなさそうである。
診察場面だけでなく、社会的事件や人の悩みに接したとき、自分は「評論家」になるか「友だち」になるか。少し考えてみることが大事のような気がする。
(Aさんのブログによると、彼女はその後結婚、出産して幸せな生活を送っているようである。)
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