生きる意味
まさきまほこ
新年あけましておめでとうございます。
初めまして、まさきまほこです。現在、大阪のとあるクリニックで精神科医をしています。私が精神科医になったのは、著書『もう独りにしないで:解離を背景にもつ精神科医の摂食障害からの回復』でも述べたのですが、家族から虐待を受け、解離という症状をもちながら育ち、大学生の時に失恋したことをきっかけに摂食障害になったことが大きかったように思います。そういったことから、小児期からの慢性的虐待が個人に及ぼす影響について、私が個人的に感じている日々のことをテーマにお話ししていきたいと思います。
今回のテーマは「生きる意味」です。正月明けから重い話だなと自分でも思ってしまったのですが、実際、臨床医をしていて患者さんから受ける最も多い質問でもあり、私にとっても永遠に興味深いテーマなのでとりあげてみました。
さて「生きる意味」は健常者の方でもテーマとしては大きいと思いますが、もしかすると健常者の方は、「生きる意味」をわざわざ考えなくてもいいのかもしれないなあと感じてもいます。健常者の方の場合、成人後に傷つき体験にあっても、「この世は生きるに値すると信じる事ができる力」を十分にもっているので、一時的に生きる意味を見失ったとしても、また希望をもって前に進むことができます。これを小難しく言うと「傷つき体験から主体的に学び、具体的な意志をもって、これからの人生においてその経験を今後の人生に創造的に生かしていく」という心の自然な過程です。ざっくり言うと、「主体性をもった創造」というのが健常者の方にとっては、たとえ意識の上に上らなくても生きる意味だともいえるでしょう。
そもそも、生きる意味というのは、生まれつき与えられているものではありません。それは、成功や失敗をくり返しながら試行錯誤し、自分に不必要なものをそぎ落とした後に残る、非常にシンプルに個性化された健康的な創造性に至る過程であり、また、その創造性を生かして社会に何らかの貢献をしていくことであると私は個人的には考えています。しかし、慢性外傷のサバイバーの場合なかなかそううまくはいきません。サバイバーはそもそも健常者の方々とは立っている心の土俵が違います。主体性が脆弱で、自分や他人を信じる力も非常に弱く、とにかく傷つくことを避けながら、サバイバーは独りで「生きる意味」を見つけ出そうともがきます。
私が精神科医として治療に携わることができるようになるまでには、「ゴミのように扱われてきた汚い自分の生きる意味」を自分で見いださなくてはなりませんでした。私の家庭には、安心して何かに挑戦して失敗したり成功したりするための場所がありませんでした。スティグマに縛り付けられていたので、何が健常なのかさっぱりわかりませんでした。「生きる意味を見つけるなんてもうやめようかな。ゴミのままでいいや。いつ死んでもどうせ誰も傷つかないのだからもういいや。疲れた」と自分を捨てかけたこともありました。実際その方がずっと楽でした。著書を書き終えてからの生活の中でも、「異様に疲労している自分」がいました。自分を虐待し続けた両親と祖父を許すことなどできないと思う一方で、許さないと一生彼等や過去に縛られて、異様に疲労しながら生きていかなくてはならないことも重々わかっていました。その先には私が私として「生きる意味」は見つかるはずもありません。しかし、言葉の上で「過去を解放しなさい」「あんまり考えすぎない方がいいよ」「あなたのせいじゃないよ」「食べて寝たら治るよ」などと言われたところで、全く心に響きませんでしたし、癒やしにもなりませんでした。要するに「虐待者を許す、許さない」と考えているという時点で許してなどいないのであって、「今ここ」にいるエネルギーは過去の慢性的外傷体験にどんどん吸い取られていくのです。
散々恨み、苦しんだ後に私が出した結論は、
「虐待者や過去を変えようということに一切エネルギーを使わないこと」
「それぞれの違いを認めて、虐待者のあり方も自分の在り方も尊重し、相手を変えようとするのではなく、自分が変わることで自分にとって心地いいだけの物理的、心理的距離をとるようにすること」
「虐待された過去は体験であって好きになる必要はないこと」
「感情的に許す必要もないこと」
「今ここの現実で好きなものを増やし、過去との絆より現実との絆をどんどん強くしていくこと」
などでした。わかりやすく言うと「虐待者を変えることを諦め、虐待者が自分の言動で変わってくれるという淡い期待をきっぱり捨て去ることで、自分自身の方が変わることである」と言えます。
これは悔しいことに自分の限界を認めることでしたが、自分以外の人になることを諦めることができる自分に正直ほっとしました「よかった。私人間なんだな」と思えました。その時に初めて「責任と自由」「人は人、自分は自分」の本来の意味に接したのかもしれません。しかし、言葉で言うのは簡単ですが、私もまだまだ未熟者。下手に頑張りすぎたり、寝不足が続くと手痛いうつ状態や過食嘔吐の衝動が待ち受けていることがわかっているので、のんびりマイペースに「過去を解放する作業」に取り組んでいる最中です。
今でも、私は虐待される夢、どこまでも落ち続ける夢を頻繁に見ます。真夜中に目が覚めた時に、自分がどこにいて、誰なのか、何歳なのか、今はいつなのかわからなくなることがあります。これは夢なのか現実なのか? と一瞬怖くなることがあります。5年前ならきっと、そのまま怖くて眠れなくなって、あれこれ小難しいことを考えて起きていたであろう私でしたが、今では「あーまたきたな。おっまだ真夜中だ! まだ眠れるぞラッキー」とその後、朝までぐうぐう寝ている自分がいます。ちょっとは図太くなったのかなあと嬉しく感じる今日この頃です。
今の私の「生きる意味」は「子供を笑わせること」と「大好きな嵐のコンサートに行くこと」です。何やら小難しいことでなく、そんな単純なことでいいんですね。
では、皆様これからも一緒に生きていきましょう。
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