「穴」的精神療法のすすめ
京都大学 野間俊一
「私は穴に落ちた。足からきれいに落ち、そのまますとんと穴の底に両足がついた。」
平成26年の年明け早々に発表された第150回芥川賞に、広島在住の作家小山田浩子氏の『穴』が選ばれました。飾らない普段着の言葉がさらさらと流れるように紡がれる、不可思議ながらも透明感のあるとても美しい小説です。夫の転勤に伴い彼の実家の隣に転居したあさひは、近所のコンビニを求めて外出した際にこれまで目にしたことのない黒い獣に出会い、その獣に導かれて足を踏み入れた川土手で穴に落ちます。穴はあさひの体がすっぽり入る大きさで深さは1メートルほど、たまたま通りかかった女性の助けでなんとか外に出るのですが、このとき以来あさひはいろいろな不思議な体験をするのです。
本作のひとつの魅力は、あさひの姑とのやりとりを軸としたふつうの日々と穴に落ちてからの非日常とでもいうべきさまざまな体験のコントラストが、読む者にある種の違和感と奇妙な心地よさをもたらす点でしょう。見知らぬ土地というシチュエーションの助けを借りて、読者を知らぬ間に一気に異界へと誘います。異界の不気味さはひとつひとつの体験があさひにとって未知のものであるためというよりも、体験している世界全体の雰囲気の異邦性から醸し出されているようです。
あさひの体験は、そしてそれとシンクロする読者の体験はある種の意識変容です。つまり、一般に「解離」といわれているものに似ています。日常との断絶、出来事に対する受動性、現実感のゆらぎといったあさひの体験の特徴は、解離のそれと矛盾はしません。
あさひにとっての解離体験とはどのようなものなのでしょうか。解離という精神現象の一つの理解の仕方として「構造的解離理論」があります(ヴァンデアハートら著『構造的解離:慢性外傷の理解と治療・上巻(基本概念編)』星和書店、2011年)。この理論によれば、慢性外傷に由来する解離の基本形を、あたかも外傷体験などなかったかのように過剰に適応的にふるまう人格と今まさに外傷体験場面を思い出して動揺している人格との交代とみなします。これは「没日常」と「非日常」との交代といいかえてもいいかもしれません。そこからさらに置かれた環境に応じて子供人格や迫害者人格などの複雑な人格が派生することによって、解離性同一性障害の病態が形成されるというのです。たんに明確な解離症状だけを問題にするのではなく、ふだん淡々と一見問題なく過ごしている姿のうちにも解離構造を見る構造的解離理論は、臨床現場に訪れる解離患者を理解するために大きなヒントを与えてくれます。
ただしあさひの異邦体験は、病的解離にみられるような恐怖心よりもむしろ、ノスタルジックな哀しさと悦びを感じさせます。あさひは自分の半身を穴に委ねながら、草むらの向こうにコメツキムシの跳ねるのを見、蝉の声を聞き、草のにおいを嗅ぎます。その体験は物語のなかで人の死といった影の側面にもつながっていくのですが、この不気味さもまた私たちの生を生たらしめているものなのかもしれません。解離を通じて、かつては親しんでいたけれど今は日常に埋もれてしまっている、私たち一人ひとりの原初的な体験がもう一度呼び起こされているかのようです。解離症状は、かつての恐怖体験の単なる再現だけではなく、その体験をなんとか乗り越えるためにさらに原初の体験にまで回帰して何かを生み出そうとする創造性をも秘めているのではないでしょうか。
物語の後半で、あさひは穴から外を眺める義祖父の隣の穴に自らも入り、義祖父と同じ光景を眺めます。二人して半身を原初的な何かに浸して、それぞれの視点からではありますが同じ何かを見、同じ何かを感じようとする営みは、私たちの臨床現場に似ています。昨今の精神医学では当然のごとくエビデンスが重視され、それと呼応してしばしばマニュアル化された精神療法について語られます。しかし、どのようなすばらしい治療技法が開発されそれによって多くの病める人が救われるとしても、本当に大事なのは複雑な技法の修得それ自体ではないのかもしれません。じつは、そのような技法が成立する場を形成すること、すなわち治療者と患者が同じ世界を感じ、二人して患者のもつ創造性に触れ、患者が自らを癒す力を自分自身から引き出すことこそが、治癒の本質ではないでしょうか。技法とは、その過程をスムーズに促すための高度な工夫なのでしょう。
日々の臨床において、治療マニュアルを紐解く前に、患者とともにそれぞれにふさわしい「穴」を探してみるというのはいかがでしょうか。
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