翻訳する心、心を翻訳する心理臨床
―『脳をみる心、心をみる脳:マインドサイトによる新しいサイコセラピー』を訳して―
臨床心理士 山藤奈穂子
マインドサイトとは、脳と心の動きについての知識を自分のために活用する知恵です。患者さんにとって、治療者にとって、大きな力です。
怒りや不安などの強い心の動き、うつや強迫といった精神症状が起こったとき、脳がどんなふうに機能しているのか、どの機能がどんなふうにうまく働いていないのか、どうすれば脳をコントロールして心の嵐を鎮められるのか、患者さんがその知恵を手にしたとき、自分の症状を深く理解して対処することができます。疾患についての正しい知識とともに、「自分が治すんだ、自分が症状をコントロールできるんだ」という主体性と自己効力感をもった人は、治療に積極的にとりくみ、症状を敵視することなく自己の1つの状態として受容し、変容させることができます。
マインドサイトとは、脳の取扱説明書を手にするようなものです。内省するのがINSIGHTであれば、脳の状態を客観的にとらえて、それが自分の心身に及ぼす影響を自覚しようとするのがMINDSIGHTです。その自覚こそが、自責と自己嫌悪による悪循環から心を守り、症状をコントロールするための「余地」を生みます。その余地において、呼吸法や瞑想をつかったマインドフルネスなどを活用するチャンスが生まれ、自分をとりもどす力が得られるのです。
わたし自身も、産後はマインドサイトに大いに助けられました。出産前から家族に「産後はきっとささいな理由で泣いたり怒ったりするが、それはホルモンのなせる業なので、言葉通りに受けとらないでほしい。棒読みでいいから、“大丈夫だよ、よくがんばっているよ”とくりかえして欲しい」と予告し、頼むことができました。そのおかげで、実際に大暴れ(?)したときに、自分や相手を責めることなく、家族とともにその理由と仕組みを理解し、心身を休めることによって嵐を治め、夫婦仲の亀裂や産後うつなどの「2次障害」を防ぐことができました。
マインドサイトがあると毎日は大きく変化します。脳内ハリケーンの犠牲者ではなく、有能な気象予報士であり、高性能のナビゲーション・システムを手にした航海士であり、自ら舵をとって荒れ狂う波を乗り切る船長になるのです。わたし自身の臨床経験で、とくにマインドサイトが有効だと感じるのは、うつ病の治療です。ただでさえ悲観しやすい脳の状態にある患者さんは、放っておくと「うつ病であること、動けないこと、治らないこと」についてくりかえし考え、自分を責め、さらに落ち込みます。そして、どんなに仕事を休んでも薬を飲んでも治らないという悪循環が生まれます。しかし、マインドサイトを手に入れた患者さんはちがいます。「すべてを悪いほうに考えてしまうのは脳がいまこういう状態にあるからなんだ。だから、考えないようにして、自分を責めず、リラックスして、少しでも楽しめることをするのが脳にとって必要なんだ。それが、治るためにいまいちばん大切なことなんだ」と理解して納得すると、変わってくるのです。抑うつ思考になっているとき、それを自覚し、「これはうつのせいだな」と理解し、「深呼吸しよう、考えないようにしよう、心と体を休めよう」といった対処をとることで、少しずつうつのスパイラルから抜け出すことができます。それが生活習慣となり、人格の一部分となったとき、うつは驚くほどよくなります。マインドサイトによって、心の嵐を乗り越え、生き延び、凪をつくりだすことができるようになるのです。
今回、『脳をみる心、心をみる脳: マインドサイトによる新しいサイコセラピー ―自分を変える脳と心のサイエンス―』を翻訳する機会をいただいて、ほんとうに幸運でした。専門書の翻訳は根気のいる大変な作業ですが、原著に寄り添って誰より深く読みこむことができるという特典があります。その翻訳過程でいつも気をつけているのは、「患者さんも学生さんも、まったく疲れずに読める」ように訳すことです。翻訳を学ぶと、滑らかな日本語で読者がスッと理解できる、そういう、原著の本意と日本語、そして読者に忠実な翻訳こそが正しい翻訳であると言われます。これは心理臨床の道にも通じます。理論やテキスト、診断基準通りの患者さんはいません。「正しい答え」はありません。文脈によって、患者さんによって、1つの言葉が何百通りもの意味をもちます。目の前の患者さんにとって最善はなにか、どんな言葉がもっとも治療者の意図に近いかたちで患者さんの心の奥まで届くのか、それを探すプロセスは翻訳も心理臨床もおなじです。翻訳とは、訳者の1つの解釈に過ぎないものですが、その1つの解釈が、患者さんと、その患者さんの力になろうとする治療者の心に、筆者がいちばん伝えたいことをまっすぐに届けるものであることを願いつつ、コツコツと翻訳を続けています。数万ピースのジグソーパズルを解くような気の遠くなる作業ですが、責任とやりがいのある、楽しい作業です。
これから専門書の翻訳をやってみたいと思う心理学の学生さんには、心理学の専門書以外にまずは3冊、翻訳の専門書を読むことをおすすめします(岡田信弘著『翻訳の布石と定石』、別宮貞徳著『さらば学校英語 実践翻訳の技術』、越前敏弥著『越前敏弥の日本人なら必ず誤訳する英文』など)。美しくわかりやすい日本語の書き方も役に立ちます(本多勝一『日本語の作文技術』、高橋玄洋『いい生き方、いい文章』、日経BP社出版局監修『説得できる文章・表現200の鉄則』など)。それでも翻訳を専門的に学んでいる方にははるかに及びません。わたし自身もまだまだ勉強不足を痛感しています。心理臨床とおなじくらい学ぶことが多くて頭がくらくらしますが、常に読者のことを考える翻訳道の基本姿勢から、心理臨床についても多くのことを学んでいるところです。
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