生体臓器移植ドナーと精神医学
東京女子医科大学精神医学教室 西村勝治
東日本大震災が発生した当時、血液透析を受けている方々が被害の大きかった地域から、東北や関東の医療機関に次々と搬送されるというニュースがあったことを覚えておられますか? 当時、首都圏でも計画停電や交通機関の混乱、生活物資の不足などさまざまな変化が起こり、私自身も含めてそうした状況で生活することに一生懸命でしたが、慢性疾患を抱える人たちはまた別の大きな不安に出会っていたのです。
そして、それから1年以上たち、東日本大震災が人々のこころにもたらした影響をいつもの診察室で改めて気づかされました。私は、精神科医として、家族からの提供を受けて腎臓や肝臓を移植する生体臓器移植に関わっています。私が担っているおもな役割は、臓器を提供しようとする人(ドナー)が、他からのプレッシャーではなく、本当に自分の意思で提供しようと思っているかを確認する、というものです。
「透析中に震災が起こり、『大きな揺れの最中、逃げることも隠れることもできず、本当に怖かった』と訴えた家族に、二度とそんな恐怖を味わわせたくない」という人、「また震災が起こったら、自分の家族は透析を受けられなくなってしまうかもしれない」という心配から提供を決意した人。当たり前の生活が当たり前でなくなったことで生じた、腎臓提供の意思です。
家族から家族へ。提供の動機はさまざまです。「透析の苦痛や束縛から解放してあげたい」「少しでも元気に長生きしてほしい」「老後を一緒に自由に過ごしたい」。一番多い理由はこのあたりでしょうか。家族同士の思いやり、繋がりが感じられる一幕でもあります。
もちろん、かならずしも純粋なGIFT OF LIFE(命の贈りもの)ではないこともあります。「透析から離れて、私たち家族のためにもっと働いてほしい」。合理的に見えますが、生活共同体としての家族の方向性に沿った提供理由だとも思えます。「本当はあの人にこそ提供してほしいけれど、あの人がしないのなら自分がするしかない」というようなことも。家族の中でさまざまな思惑が渦巻くこともままあることです。
「自分はどんなリスクを負ってもいい、とにかく家族を助けたい!」。悲痛とも感じる熱意を込めて提供理由を話される方もいます。「親として子どもを助けるのは当たり前、自分は死んでもいい……」。特にお母さんから子どもへの提供理由では「健康な体に産んであげられなかった」「(病気に)早く気付いてあげられなかった」という自責の念が語られることもあります。
生体臓器移植のドナーに求められることは提供意思の自発性と、その前提となる意思決定能力です。意思決定能力に疑いがあれば、ドナーにはなることはできません。しかしこの意思決定能力の評価は実はとても難しいのです。たとえば統合失調症の方や軽度の知的障害がある方でも、もちろん家族を想い、力になりたいと思い、自分の腎臓を提供する権利があるはずです。彼らが、誰かのプレッシャーで断れないというような事態や、必要な情報(たとえば移植を行うことで生じる危険性や有益性、透析などの他の代わりとなりうる治療の存在など)を十分理解しないまま提供を促されるというような事態を避け、心身共に安定した状態の中から生じた自発的な意思ならぜひ尊重したい。
臓器提供希望者の権利と擁護。高度医療のなかで精神医学はどんな役割を果たすことができるのか、医療倫理として新たに課された課題です。医療者だけでなく社会の中でもさまざまな考えが議論されることが、この命題の答えにつながるかもしれません。そんなことを考えながら、また新しい移植を希望する方の面接に臨む日々です。
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