人の生まれもつ回復へのちから〜レジリエンス
熊谷一朗
診察中に、差し出されたスマホを眺め見ることもこの最近はずいぶん増えた。多くは患者さんが自ら書いたブログやメールかラインなどというものなのだが、この日は色とりどりの晴れ着姿が並んだ。成人式。親ならずとも目を細める人生の佳日。彼女にしても中学3年で被災したため、志望校には進学できず、数か所を転々、不登校の時期も長かったが、福島県はこのいわき市に移り、無事通信制高校を卒業し、専門学校へ進んだ。震災後、もうすぐ5年。第一原発から半径20キロ圏内に位置する双葉郡楢葉町では、昨年9月に避難指示が解除され住民の帰還がはじめられたが、帰ることができたのはまだ5%ほどの世帯だという。それでも5年ぶりに同町で行われた成人式には88人の対象者のうち、73名の新成人が集まった。「楽しかったけど、きつかったですね。振り袖着てるのが。あっち(楢葉町)で着付けできないからこっち(いわき市)で帯締めて、移動も遠くて大変でしたよ」そう言って笑う。それが本音だ。それでも急な避難と別れを強いられた同世代が、生まれ育った土地で集まる意味はあろう。「みんな戻りたくても戻れないって言ってる。絶対戻りたくないって子たちもいる。都内で暮らしてると変に気を遣われたりして、出身地も言いづらいくらいなんだって。でも逆に(再生エネルギーやロボット産業などの)新しい職場もできつつあるから、資格取ったら地元に戻りたいって言ってる男子もいましたね」
震災および原発事故後、被災地至近のクリニックに従事する手前、多くの困難を診ることになった。理不尽な生命や故郷の喪失、避難先での差別、軋轢。震災は、普段見なくても済む多くのものを、否応なく私たちに突きつけてくる。避難する、しない、戻る、戻れない――いかなる行動をとるにせよ、多くの葛藤がつきまとう。家族を亡くし、故郷に帰れず、こんなにも苦しい状況から、立ち直れ、という方が無理なんじゃないか。そう思うこともしばしばだった。支援員の不足や、援助者の抑うつといった、看る側の困難の問題も出た。それほど抜き差しならない現場だった。
「学校に行けない時期は、本当にきつかった。こんなはずじゃないって、震災さえなけりゃって、ずうっと思ってた」晴れ着姿の眩しい、彼女は話す。「友人とも、家族とも離れ離れになって、はじめは知らないクラスでもなんとか話しかけたり頑張ってたけど、学校行けなくなったら家からも出られなくなった。どうしてよいか分からなくなった」確かにそうだ。それからも職を失った両親が正式に離婚するなど、困難は尽きなかった。「でもあるときすうっと、開き直れる瞬間があったんです。自分でも不思議ですけど。大好きな父も遠く離れて、SNSでもみんな元気な姿ばかりでつらかったんですけど、なんかもうドン底まで来たら、失うものもないなって、そう思えて思い切って発信したら、何人かの同級生から返事もあって。みんな苦労してるって話になって、肩の荷が下りて。何だ。みんなひとりなんだ。ひとりだから自分のちからで、生きていくしかないんだなって」
震災後の回復過程を見届けることは、私自身の回復でもあり、人が本来持っているはずの、しなやかなちからを再確認する道のりでもあった。外傷の治療ということになろうが、例えば死者と対話を続ける遺族や、奇跡的に母親の遺体に巡り合えた方がいるなど、精神医学の範疇を超えた、さまざまなできごとが起こりうるのも事実であった。精神療法的な治療といえば私にとって、体験した感情を、ともに確認し、洞察、成長してゆく過程といえるわけだが、そう簡単なものでもなかった。かつてない多くの喪失を、乗り越えることなど不可能なほど、深い絶望に置かれた方々も少なくなかった。そのなかで、いかにしてその人が持ちうる、内的なちからを伸ばしてゆけるか。社会や差別や日常的な軋轢を超えた、その方の生命力そのものに焦点を当てていけるか――。「でもあるときすうっと、開き直れる瞬間があったんです。何だ。みんなひとりなんだ。ひとりだから自分のちからで、生きていくしかないんだなって」理屈ではなく、いまなら待つことの大切さが身に染みる。少しでも安心できる居場所を確保し、非日常と向き合うための時間が必要となる。耐え抜く場所が肝要となる。やがて観念ではなく、感覚として、回復への道のりが開かれる。逆境を生きるという経験は人に、生きて在ることそれ自体の実感を要請するものなのかもしれない。そのときおそらく彼らには、一回り新しい地平が見えているのではないか。それは震災後という極限状態だけに限定されず、逆境から心身が回復する過程において、普遍的な道のりなのではないだろうか。
このほど書かせていただいた『回復するちから〜震災という逆境からのレジリエンス』においては、そんな言葉にならない心身の回復過程に焦点をあて、震災後の逆境のなかで、あるいはどちらかといえば逆境に置かれたがゆえにこそ喚起される、人の持つ自然で、生来の回復へのちから、ダイナミズムを描きたかった。多くのストレスや精神症状という生きづらさに苦しまれている方々や、それを受け止め、苦難をともにする側の援助職の方々への、回復へのヒントになればとてもうれしい。
それにしても華やかな晴れ着は眩しい限りだ。私たち援助職にとって、この瞬間があるからこそやってゆけるよろこびでもある。それぞれがそれぞれの5年を経て、成長してゆく。もちろんこれからも困難はあるだろうが、福島の未来だって、そう捨てたもんじゃないはずだ。震災後の非日常を経験した彼らが、どうこの新しい時代へとつながってゆけるのか。それを見守る楽しみもある。ロボット産業、再生エネルギーへの展望。よいではないか。彼らならやってゆけるはずである。メールとラインの違いもいまだに分からない、自分たちの世代をはるかに越えて。
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