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星和書店
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精神科医の戦略&戦術ノート

精神科医の戦略&戦術ノート

精神科救急病棟で学んだこと

白鳥裕貴 著

四六判 並製 292頁
ISBN978-4-7911-0946-3〔2017〕
本体価格 2,500 円 + 税

十余年の精神科救急で経験して得た知恵やコツ、後輩医師や研修医に話してウケがよかった話などを戦略、戦術という視点からまとめた覚え書。
精神科の特に急性期の医療に求められていることをまず明らかにし、そのニーズに沿って‘戦略’を立て、個々の患者さんの抱える問題に‘戦術’を用いて対応していくという流れとなっている。最後に、著者がいろいろなことを教えてもらった印象深い患者さんたちを紹介する。
特に若手、中堅にさしかかる医師にとっては、教科書にはあまり書かれていない現場で役立つ実践的知識が得られるだろう。手軽に読める、臨床や病棟運営のノウハウが満載のノート。


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精神科治療学
本体価格  
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月刊 精神科治療学 第32巻1号

特集:鑑別しにくい精神症状や行動障害をどう診分けるか

鑑別しにくい精神症状や行動障害の診分け方を徹底解説!前回の特集(31巻3号/2016年3月)からさらに行動障害にも対象を拡げ、内容がより充実。操作診断や構造化面接だけでは診分けるのが難しい精神症状や行動障害として、本特集では「気分が変わりやすい」「昏迷と緊張病」「ぼーっとしている」「人前に出るのが怖い」「強迫、常同、反復」「眠れない」「緘黙」「落ち着きがない」「自傷」「物をためこむ症状」などを取り上げた。鑑別しにくい精神症状や行動障害に出遭ったときに役立つ特集。
JANコード:4910156070177

臨床精神薬理
本体価格   
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円+税
月刊 臨床精神薬理 第20巻02号

特集: せん妄に対する治療戦略最前線

せん妄は、高齢者や脳器質性疾患を有する場合に高頻度に発現する急性の脳機能障害である。精神科に限らず一般病院の内科や外科、ICU、終末期医療などあらゆる医療現場で頻発しており、日常診療において極めて重要な課題である。本特集では,せん妄の病態生理、診断、予防と治療をめぐる最新の研究成果や情報に関して、エキスパートの先生方に概説いただいた。
ISBN:978-4-7911-5232-2

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  今月のコラム  
今月のコラム

『うつ病』(ヴィタリー・ミヌートコ博士著)翻訳から教えられたもの
下中野大人

つい先日、たまたまチェーホフ全集の第14巻(昭和35年初版、51年の再訂版)を開いていたら、付録として、今は亡きなだいなだ先生の小文があった。その中でチェーホフの「六号室」について触れているのだが、一部をそのまま引用させていただきたい。

“この小説の前半に出ている病人の病状の描写なども、鮮やかであり、正確である。教科書に、症例としてのせたら、すばらしい教科書が出来上るだろう。だが、この小説が書かれたのは、精神科の講座が、欧米の大学で、まだ定着してない時代、有名なクレペリンの教科書の第一版すら、まだ出てない時代であったのである。それを考えると、私はチェーホフに脱帽するほかない。”

拙訳『うつ病』の中にも、多くの症例(と言うべきか?)がチェーホフの作品から採られている。それ以外にもトルストイやドストエフスキーといった大御所から、日本人にはあまり知られてない作家の作品、またロシア人の画家、音楽家が登場する。本書の面白いところは、この一点にあると言ってもいいかもしれない。しかし、多くの日本人はふだん触れることのない、あるいは嫌っているかもしれないロシアを、少しでも知ることになるだろう大切な一点、と訳者としては言わせていただく。

著者のミヌートコ先生とは、2009年、モスクワで初めてお会いした。その際、原著をいわばおみやげとして頂いた(先生には、他に統合失調症や、強迫状態—これは500ページ近い大著である—というタイトルの著書がある)。2回目にお目にかかったのは、2013年、第8回国際森田療法学会がモスクワで開催されたときであり、先生は特別森田療法に関心があるという訳でもないのに、私のつたない発表を聞きに来られた。さらには、個人的にプーシキン美術館を案内してくれたり、しゃれたフランス風のレストランで昼食を奢ってくださったりした。これがロシア人気質か、と単純に嬉しかった。このころ既に、ぼちぼち『うつ病」を翻訳していたのだが、このときに、これは何としても日本語にして出さなければ、と心に決めたのである。

話はややとぶが、昨年9月、カンボジアの精神科などを訪れる機会があった。ここでの精神科医療は、貧困と教育問題を背景にして、疾患(特に麻薬中毒患者が目立った)や治療スタイル(僧侶などによる伝統的治療がかなり重んじられている)が、わが国のものとは随分とかけ離れているように見えた。精神科医療の生物‐心理‐社会モデルが言われて久しいが、しみじみ精神科疾患は、患者の置かれた社会・文化的背景に大きく左右されることを思った。グローバライゼーションが広がり、世界を均一化させる方向に文明が進んでいるのも事実だろう。しかし、固有の文化や歴史、伝統などがそう簡単にはなくなるものではない。そうして、患者、いやすべての人はその中で生き、影響を受けているのだ。

そういう意味で、少なくとも臨床にあたる者は、無論自国の文化や社会状況に敏感であるべきだし、ロシアにせよカンボジアにせよ、他国の文化、歴史などにもできるだけ注意を払う必要があるように思われる。それは、医学分野全体からみると、精神科の特殊な事情かもしれない。しかしそれは同時に、精神科医療に携わる者のたのしみでもあろう。

下中野大人(しもなかの ひろと)
医療法人社団翠会 心のクリニック行橋院長。東京外国語大学露語科卒業後,会社勤務を経て,平成2年大分医科大学卒業。九州大学病院精神科神経科,大牟田労災病院,行橋記念病院勤務などを経て,平成17年より現職。著書に,詩集『夕日と狂気』『40人』ほか,小説『我に祝福を』(筆名:神谷和弘),訳書に『うつ病』(ミヌートコ著)がある。
連載 zurichからの便り
 第2回
あなたと私は違うのだから
林 公輔

1月のチューリッヒは、凍えるような寒さの中にあります。最低気温が -14℃という日もありました。曇り空の日が多く、時々雪が降ります。そんな景色を眺めながら、学生時代を過ごした北陸の冬はもっと暗かったな、とふと思いました。本当にそのような違いがあるのかどうかわかりませんが、そんな風に、昔眺めた、鈍色の雲が低く垂れ込めた冬の日本海を思い出すのです。
 こちらに来てからの方が、日本のことを考えたり思い出したりすることが多くなりました。スイスという異文化を鏡にして、私の中の日本が映し出されているのかもしれません。違いがあるからこそ、生まれてくるこころの動きがあります。

ISAPというところ

私が留学している研究所は、International School of Analytical Psychology Zurichという名称ですが、学生の間ではISAPと略されます。ユング派分析家の育成をその主な目的としていますが、一般に公開されているレクチャーも数多くあります。ユング自身がその設立に関わった研究所は、数年前に2つの組織に分かれ、そのうちの1つがISAPになります。
 現在ではスイス以外にも、世界中に“ユング研究所”は存在しています(日本にもあります)。International Association of Analytical Psychology(IAAP)という団体が認可した研究所の数は、そのホームページによれば、世界に58あります。これらの研究所で所定のプログラムを終了すれば、ユング派分析家資格を取得することができます。
 ISAPには世界中から様々なバックグラウンドを持った学生が集まってきます。思いつくだけでも、アメリカ、イタリア、インド、オーストラリア、スイス、ニュージーランド、フランス、ロシアなど多彩です。そのため研究所での言語は英語になりますが、3カ国語以上話せる学生は珍しくありません。やはり根本的に、言語の成り立ちが日本語とは異なるのでしょう。スイス人の多くは英語を話せますから、ある程度の英語力があれば、生活していくうえであまり困ることはありません。ちなみにスイスには4つの公用語(ドイツ語、フランス語、イタリア語、ロマンシュ語の4つで、英語は含まれません)があり、チューリッヒはドイツ語圏になります。そのため、役所の書類はドイツ語で困りますが、研究所のスタッフが助けてくれます。
 学生の年齢もまちまちです。40歳代以上の学生が多く、中には70歳代の人もいます。私のように留学してくる学生もいれば、スイスで働きながら通ってきている人もいます。自国で仕事を持ち、1年のうち3ヶ月間だけ研究所でトレーニングを受け、残りの期間は自国でトレーニングを続けているような人もいます。私の場合は、資格取得の過程の一部をチューリッヒで受け、残りは日本の研究所(日本ユング派分析家協会)で行う予定です。日本の研究所とISAPとの間にある協定に基づき、私はここに来ています。このように、学生の事情によって、さまざまなトレーニングの形があります。
 日本の研究所の場合、基本的に臨床経験のある人たちがトレーニングを受けていますが、ISAPには臨床経験のない学生も数多く在籍しています。選抜基準が異なるためですが、これは大変に大きな違いです。さまざまな背景を持つ学生が多いことは刺激的である一方、どうしても臨床経験に差がありますから、ディスカッションの際など物足りなさを感じることもあります。ですから、ISAPでユング派分析家の資格を取得したとしても、十分な臨床経験を証明するものではないのです。所定のトレーニングを終えたことの証明に過ぎません。
 “トレーニングを終えた証明に過ぎない”ことが分かって、私は良かったと思っています。なぜなら、日本にいた時の私は、“ユング派分析家”という資格を過大に評価していたと思うからです。“ユング派分析家”と聞いただけで、「ははーっ」と頭を下げてしまうような(あくまでも例えです、念のため)、ちょっと大げさですが、そんな条件反射があったように思うのです。でもそのような条件反射が適切ではないことが、こちらに来てわかりました。チューリッヒには本当にたくさん(実際どれくらいいるのでしょう)の分析家がいますので、レクチャーやセミナー以外の場でも交流する機会に恵まれます。そうするとだんだん、分析家もいろいろなんだなぁ、という(本来は当たり前の)ことがわかってきます。生意気だとは思うのですが、これは自分自身への戒めでもあります。分析家の前で「ははーっ」となってしまう私が、分析家になろうとする無意識的な理由には、“権威的な存在”でありたいという私の願望が含まれているように思うからです。
 ISAPにいると、分析家と学生の関係は“仲間”みたいだな、と感じます。良い意味で、距離がとても近いのです。下から見上げる存在ではなく、横並びの対等な存在として、彼らは私たち学生の前にいてくれます(例外はあります、もちろん)。だからこそ、いろいろなことを(生意気なことも)、自由に感じたり考えたりすることができるのではないでしょうか。そのような関係性や、それを支えている分析家の態度(例えば率直さ)を、私はありがたく思っています。分析家の“存在”を、近くで直接感じる機会に恵まれることが、ISAPに留学するメリットの1つだと思います。
 ここで突然ですが、また英語の話に戻ります。私は英語ができなくて情けない思いをすることが多いですが、分析家たちは私の英語力ではなく、私の人格だったり意見のほうにずっと関心を向けています。つたない英語でも、思っていることを言葉にできた時、彼らはそれをきちんと評価してくれます。英語ができないと思い悩んでいるのは私自身であり、私が思うほどには相手は気にしていないことに、だんだん気がつくようになりました。このような私の気づきには、“投影とその引き戻し”という機制が関係しています。ユング派分析家資格に対して、私が以前ほど権威的な意味づけをしなくなったことも、同様です。

投影とその引き戻し、そして生まれる新たな“スペース”

第1回に引き続き、今回もマンガの話をしたいと思います。みなさんは『め組の大吾』という消防士を主人公にしたマンガをご存知でしょうか。主人公の朝比奈大吾は、自分の命に危険が及ぶような現場でも果敢に、本能に導かれるように突入し、多くの命を救います。他の誰も、それを真似することはできません。しかしそのような経験を重ねるなかで、どうして自分は危険な場所に向かうのか、向かえるのか、という疑問を抱くようになります。そしてある時、救助現場で意識を失いかけます。朦朧とした意識の中で彼が見たものは、炎の中で助けを求めていた、6歳だった自分自身の姿でした。そして気がついたのです。自分がこれまで危険な現場で助けようとしていたのは他人ではなく、火事で命を失いかけた幼い頃の自分自身だったということにです。だからこそ、恐怖に怯えていた自分自身を救おうとしていたからこそ、どんな危険な現場にも突入することができたのです。
 心理学の用語を使えば、自らの投影に気づき、その引き戻しが起こったということです。それは相手の問題ではなく、自分の問題だったことに気がついたということです。先ほどお話しした私の体験に引きつけてお話しすれば、英語ができないことを気にしていたのはまわりの誰かではなく、私自身であったということです。
 医療関係の仕事に就こうとする人たちの動機の背後には、このような投影が作用していることが少なくありません。一生懸命に誰かを援助しようとしながら、実際には、無意識的に自分自身の傷つきを患者の上に重ね合わせ、それ(自分の傷)を手当てしようとしているのです。私はこのような投影を批判したいのではありません。困難に立ち向かう強いモチベーションにつながることもあるでしょう。でもやはり私たちは、そのような動機がありはしないか、投影が生じてはいないかと、ちょっと立ち止まって考えてみる必要があると思います。そうしないと、患者の訴えとこちらの理解との間にズレが生じてしまうでしょう。どうしても、治療者自身の色眼鏡を通して患者を見てしまうからです。治療者自身が解決できていない問題を、患者に(無意識的に)押し付けてしまうこともあるかもしれません。
 私は分析を受ける過程で、このような投影が徐々に自分へと引き戻されていることを感じます。ですから、ちょっと本当のことを言えば、以前のような意欲をもって臨床現場に戻れるか不安になることもあります。でもその一方で、以前に比べてもっとはっきり物が言えるのではないか、とも思っています。「それはあなたの問題だから、もっと主体的に考えてください」というようなことが、サラッと患者に対して言えるのではないかと思うのです。これがサラッと言えたら、この言葉は単なる拒絶とは違う意味合いを帯びるはずです。2人の違いを明確にしつつも、その間に関係性を生み出す言葉になりうると思うのです。
 このような言葉は、患者と治療者との間に心理的な“スペース”を生み出します。そしてそのような“スペース”にこそ、新しい何かが醸成されてくると私は思っています。心理的な“スペース”と、そこから生まれてくる“何か”ということについては、中村敬編『日常臨床における精神療法』(星和書店)の中に書きましたので、是非お読みいただければと思います。
 ほど良い“スペース”があるところにこそ、出会いと別れの可能性が生まれます。初めから2つがぴったりくっついていたとしたら、そこには出会いも別れもありません。そして、出会いと別れがあるところにこそ、治療上とても大切な、新しい“何か”が育まれてきます。
 このような“スペース”を思うとき、「あなたと私は違うのだから」という言葉を私は連想します。そして、なんだかちょっと哀しいな、と思うのです。なぜならそこには、別れの予感が含意されているからです。でもその別れの哀しみは、新しい出会いの可能性を含んでもいます。だからきっと、人が本当に良くなる時は、哀しいのではないでしょうか。出会いと別れ、そして希望と哀しみとが、同時に存在しうるような“スペース”にこそ、人が変わるために不可欠な、新しい何かが創造されると思うのです。

林 公輔(はやし こうすけ)
精神科医。医学博士。福井医科大学(現福井大学)医学部卒。慶應義塾大学医学部精神・神経科学教室、特定医療法人群馬会群馬病院等を経て、2016年3月より、International School of Analytical Psychology Zurichに留学中。
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