1999年J-POPの「Trauma」と解離とフラッシュバック
新谷宏伸
2020年、故安克昌先生の生涯をえがいた物語『心の傷を癒すということ』に続いて、浜崎あゆみさん(以下あゆ/浜崎あゆみと敬称略で記載)の半生をつづった“事実に基づくフィクション”『M』もTVドラマ化されました。1999年当時大学生だった私は、ELTやDo As Infinityとともに、あゆの曲もカーステで聴きまくっていましたが、まさか心の奥にあるMDプレイヤーの再生ボタンが21年後に押されようとは思ってもみませんでした。
【歌詞へのリンク】
Trauma 浜崎あゆみ 歌詞情報 - うたまっぷ
【動画へのリンク】
Trauma (LOVEppears / appears -20th Anniversary Edition-) - ayumi hamasaki
――これは、浜崎あゆみのマキシ・シングル『A』に収録された『Trauma』という曲です。耳ダコに刻まれた記憶をたどると、この歌はたしか桃の天然水のCMソングだったはず。『Boys & Girls』や『appears』など、どストレートで分かりやすい歌詞が多かった1999年当時の彼女の楽曲にあって、『Trauma』に紡がれたことばは、ひときわ異彩を放っていました。一行目から力強いメロディで「今日」と「顔」というフレーズをくり返すことで、聴く人の心の耳に違和感を残そうという意図があったのでしょうか。この歌詞は、「今日一日の中でうれしいこともあったし、悲しいこともあった」という文字通りの意味には収まりません。むしろ「同じ瞬間の、同一のはずの自分の中の、別々の顔」、つまりトラウマによってこの曲の主人公の同一性が二分割されている様子を婉曲的に伝えたかったのでしょう(少なくとも今日の僕にはそう感じられます)。
よく考えてみれば、僕たちの心の中にだって、「働きたい自分」と「仕事をサボりたい自分」の両部分が遍く存在していますよね。極端に針が振れないように折り合いをどうにかつけるという調整が、きっと日々なされているのでしょう。ならば、虐待者との同居という劣悪な境遇を強いられるなど、“折り合いのつかなさの程度”いかんによっては、敵対する国家同士の国交以上に「自分」と「自分」の関係が緊迫し、心が分断されても不思議ではありません。自分が虐待されていることや、自分の養育者は涼しい顔で虐待をするひどい人間だという事実は、誰でも認めたくないし、なかったことにしたいものでしょうから。
トラウマを受傷した人の心は、「生活担当パーツ」(=ヴァン・デア・ハートらの構造的解離理論でANPと呼ばれるもの)と「トラウマ記憶担当パーツ」(=同じくEPと呼ばれるもの)に切り分けられるようです。トラウマ記憶は、物語記憶(一般的な記憶)と違い、“言葉にならない”ほどの辛さを伴う体験の記憶なので、「記憶+感情+感覚+行動のかたまり」として冷凍保存されます。それをEPが引き受けてくれるため、かたやANPはトラウマを想起せずにすみ、辛さに圧倒されず日常生活を送ることが可能となるのです。つまり解離という“切り離し作業”は、トラウマに耐えながら生きなければいけない者にとっては、理に適った生存戦略といえましょう。
ANPとEPが切り離されたままで生きる弊害は、むしろトラウマ環境から離れて生活できるようになったときに露わになります。例えば、若年期に虐待を受けていた人が成人し、就職後に上司から叱責されたとしましょう。すると、上司の叱責がトリガー(引き金)となり、「若年期の養育者や学生時代の教師から責められたときの無力感や怒り」などの、冷凍保存カプセルの中身が再活性化され、ないまぜになって噴き出してANPを襲います。トラウマ記憶は“言葉にならない”ため、体感を総動員して溢れ出てくるのです。これがフラッシュバックです。
フラッシュバックというと、映像で過去のシーンがリアルに想起されるものがポピュラーですが、実際にはさまざまなタイプがあります。【1】感情のみの(あるいは感情優位の)フラッシュバックの場合、前述のトリガーが同定できないことも多く、ANPは“なぜだか理由は分からないが溢れてくる怒り、恐怖、あるいは悲しさ”として実感することになります。【2】聴覚性フラッシュバックは、一言一句テープレコーダーを再生するように迫害者に吐かれたフレーズを再体験するのではなく、再構築されて少しずつ文言を変えながら、“幻聴”としてくり返し体験されます。【3】行動がフラッシュバックすると、若年期の養育者そっくりの口調で自分の子どもに暴言を吐くといった“行動的再演”として現れます。【4】幼少期に受けた身体的虐待や性的虐待が身体に刻まれていると、原因不明の“身体の痛み”としてのフラッシュバックが生じます。
フラッシュバックのみをテーマに本一冊、映画一本、J-POP一曲作れそうですが、ともあれ、トラウマ記憶に由来するとみなして支援にあたるトラウマインフォームド・アプローチの視点をもたなければ、【1】から【4】の症状はそれぞれ単なる情動易変性、幻聴、攻撃性、身体症状と片づけられてしまうでしょう。ANPは、今の苦痛と昔の苦痛、両方を一度に被ってしまっているにもかかわらず。
トラウマ記憶を抱えるという過酷な役割をEPが引き受け続けてくれたからこそ、解離症の患者は生き延びることができたのです。それを忘れてはなりません。ただ、“解離”によって過去の感情を生々しいまま心に溜め込み続けたことで、現在は不調をきたすようになってしまっています。では、ANPはラクな人生を歩んできたのでしょうか?――答えは「いいえ」です。心身の殺戮から逃れるためには、トラウマと距離をおき、迫害者を肯定しながら生活する悲痛なパーツ(ANP)の存在もまた不可欠だったのです。
近年のトラウマ・ケア領域の興隆は、決して浅薄なブームではなく、ジャネ理論の正当なる復権によるものとみなしてよいと思います。実のところ、ジャネが光を当てた「トラウマと解離の文脈」ほど汎用性があって回復支援に有用な説明も、そうはありません。支援のまず第一歩として、治療者は、EPから目を背け拒絶するのではなく、感謝を伝えてその労をねぎらう必要があります。
【歌詞へのリンク】
Trauma 浜崎あゆみ 歌詞情報 - うたまっぷ
お手数をおかけしますが、ここで再度、上記のリンク先にある『Trauma』の歌詞、ラスト三行(サビ)に目を通してくだされば幸いです。傷を誰に見せられるのか、主人公が「あなた」という存在にたずねていますが、「あなたなら」の「あなた」とはいったい誰なのでしょう?主人公のトモダチでしょうか? それとも、歌を聴いているファンでしょうか?――そうではなくきっと、「あなた」とは、「うれしかった顔」の持ち主であるANP。そして「私なら」の「私」とは、「悲しかった顔」を浮かべているEP。僕はそう分析するのですが、そんな推察は荒唐無稽でしょうか。でも、トラウマに晒されたことで複数に分かれた主人公の内面を(主にEP側からの視点で)歌っているのだと解釈すると、歌詞全体の様々な箇所の辻褄が合うのも事実なのです。トラウマに飲み込まれて為すすべがない状態から、特に曲の後半部分ではパーツ間でエンパワメントがなされ、曲の主人公はリカバリーへの道を歩んでいきます。そんな『Trauma』は、あゆの楽曲群が全体としてハーモニーを奏でるうえで、まさにバランサー的パーツとして欠かせない存在かもしれません。
閑話休題、臨床場面における構造的解離支援の要諦は、治療者のそのコンパッショナブルな態度で、poker faceのANPに、EPとの国交回復の必要性をTrustしてもらうことのはずです。そのベクトルの延長上、それも遠くないところに、USPT(タッピングによる潜在意識下人格の統合法)による治療があると、僕は考えています。
【参考作品】 『Trauma』 (作詞:浜崎あゆみ, 作曲:D.A.I., 唄:浜崎あゆみ, avex trax,1999)
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