発達障害の森の道しるべ
榊原洋一
普通学級の児童生徒の6.3%に発達障害の症状が見られることが文科省の調査で明らかになってから,すでに20年が経過し,発達障害という言葉は社会的にも十分知れ渡った。これは例えば小学校では一クラスに平均2人の発達障害の様々な特性を持つ子どもがいる勘定になる。このように発達障害の子どもたちはどこにでもいることから,子どもに関わる様々な人々の間で,発達障害に関する情報への需要が高まり,現在世の中には発達障害に関する夥しい数の書籍や,インテターネット上の情報が氾濫している。
子どもの発達障害を専門とする私のような医師にとって,社会の発達障害に関する知識が広まったことは喜ばしいことである。しかし,世の中に氾濫する様々な書籍やネット上での情報を見聞きするにつけ,必ずしも手放しでは喜べないことに気がついた。
発達障害を構成する個別の障害である,自閉症スペクトラム障害(ASD),注意欠如・多動性障害(ADHD),そして学習障害(LD)は,比較的近年になってその概念や診断基準が定まった障害である。自閉症スペクトラム障害は1943年のカナーの報告,注意欠如・多動性障害は1902年に小児科医のスティルが報告しているが現在の診断概念は1980年(DSM-III),そして学習障害は1988年(全米LD合同委員会)と比較的新しい。また,概念の確立後も,何度か診断基準の再定義がなされている。
こうした来歴に加えて,発達障害を構成する個々の障害は,子どもに見られる特徴的な行動や反応パターンの有無ないしはその数で診断するというファジーさを内包した診断システムに依拠している。
こうした事由によるためか,SNSはいざ知らず,定評ある出版社から発刊された発達障害に関する書籍,特に一般向けの書籍の記載に,どう見ても正確とは言えない記述が多数あるのである。
例えば専門家の医師や心理士による書籍の中に,あたかも「発達障害」という診断名があるかのような書き方をしているものが多数見受けられる。発達障害には併存例(例えばASDとADHD,ADHDとLD)が多いことから,それらをまとめて発達障害と括りたくなる気持ちはわかる。しかし例えば「発達障害にはこのような特徴があります」とか「発達障害の人は日常生活でこのような困難があります」と言った記載を見るとやりきれない思いがする。
発達障害が「総称」であることは,専門家であれば誰でも知っていることである。しかし専門家内にも,発達障害に含まれる個々の障害の種類について,大きな見解の相違がある。
発達障害者支援法などで規定される(狭義の)発達障害は,ASD,ADHD,LDとそれに類する障害(例えば発達性協調運動障害)になるが,医師の中にはDSM-5の神経発達症(neurodevelopmental disorders)と同義と捉え,上記4障害に知的障害,コミュニケーション障害(吃音など),そしてチックを含むと考える人がいる。さらには,発達障害学会のように,上記に加えてダウン症,脳性麻痺,てんかんなども発達障害の範疇に入れている場合もある。
発達障害が,精神医学,小児科学,心理学,教育学などの複数の領域にまたがる障害であることも,情報の混乱の一因になっている。それぞれの領域で捉え方が微妙に異なり,そうした専門分野の不統一が,一般の人や専門を目指す学生向けの標準的な書籍(教科書)の不在の原因になっている。
こうした懊悩の前で足踏みをしていた私に朗報が入った。お茶の水女子大学のヒューマンライフイノベーション機構が,発達障害についてのQ&Aシリーズを発刊する計画があり,私とASD研究の第一人者の神尾陽子氏(児童精神科医・お茶の水女子大学 人間発達教育科学研究所 客員教授)に執筆と監修を依頼してきたのである。お茶の水女子大学人間発達教育科学研究所スタッフの手厚い協力体制のもと,この度Q&Aシリーズ3冊(ASD編,ADHD編,LD/発達性協調運動障害/チック障害編)が発刊されることになった。
エビデンスベースであること,具体的な治療・対応に関するQ&Aを多数採用し,現場ですぐに役立つ実践的なものという編集方針が見事に結実した満足のゆく出来となったと自負している。冊子媒体以外にもWebsiteでも閲覧できるようになっているので,ご活用いただければ幸いである。
【発達障害Q&Aシリーズ 冊子ダウンロードURL】
http://www-w.cf.ocha.ac.jp/iehd/qa-series/
榊原洋一(さかきはら よういち)
小児科医。お茶の水女子大学 名誉教授。
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