100見は、1体験に如かず
先日、ニュース番組で、間もなく発売される3Dのテレビを紹介していました。それはそれは迫力のある画面だそうです。今でさえ、テレビやゲームに夢中になっている子どもたちは、実際の体験をせずに画像情報によって物事を模擬体験しているのに、どうなってしまうのでしょうか。模擬体験という言葉も、この状況をうまく言いあらわせていないかもしれません。模擬にしろ、実際に体験していないのですから。
実際に体験した場合と、体験せずに画像をみたり話を聞いたりした場合では、そのリアリティの強さは、まったく違うのではないでしょうか。テレビでタレントがおいしそうな食べ物を口に入れ、おいしい〜って言っていますが、その食材を食べたことがない人には、いくらおいしいって言われても分からないと思います。例えばフォアグラを食べたことがない人が、いくら説明されても、あの食感は、分からないと思います。ボクシングのゲームで、チャンピョンになれたから、自分はボクシングがうまいと思っている子どもたちもいることでしょう。でもあのワンラウンド3分間、よほど鍛えていないと、本当に苦しいんです。疲れてしまって足が動かなくなります。私も昔、体力をつけようとボクシングジムに何回か行ったことがあります。3分間リングの中で練習するだけで、息も絶え絶え、これは自分には無理だ、と実感したものです。ですがテレビや競技場でボクシングを観戦している人は、「もっと打って、アッパーだ、ジャブだ、どんどん前に行け!」なんて威勢よく応援しています。 俺はゴルフはシングルだ、と威張っている人が、聞いてみるとテレビゲームでのシングルだったということもあります。でもこの人は、ゲームで何時もいい成績をだせるから、実際にゴルフをしてもうまくいくと思っているかもしれません。
百聞は一見に如かず、と言いますが、100見は1体験に如かずです。
私たち出版人の多くは、「うつ病」を体験せずに「うつ病」の本を出版しています。治療者の多くも、うつを体験されることなくうつ病の人の治療をされています。うつについて勉強し、文献を読み、治療に当たられているのでしょうが、うつの実際の体験をされているわけではありません。うつを体験された精神科医が、当社から「普通の精神科医?」という本を出版されています。自分はうつ病の専門家として長年治療し、精神薬理の専門家としても実績を積んできたが、うつになってみると、今まで思っていたものとは、こんなに違うものかと驚かされた、この苦しさをどう表現したら伝わるのだろうか、と思われたと言っています。
木村敏先生も、ご著書の中で、自分の見ているものは患者と言う他人の意識や世界だから写生が写生になっているかの保証はない、と言われています。哲学者は、自分の心をみて考えていくのに比較して、精神科医は、他人の心をさも分かっているような顔をして、他人である患者さんについて何かを言う、この矛盾に随分悩まれたと言われています。
単剤で治療すべきで、多剤併用はよくない、というのが今の学説ですが、これについて神田橋先生は、中井先生の例をあげられています。患者さんに合うものを少しずつ投与される中井先生の処方は、まさに名人芸であるとし、多剤併用は、漢方的な精神である、と言う中井先生のお考えを取り上げられ、このようなことは状態像の意味が分かる中井先生でないとできない、と言われています。中井先生は、以前、当社の雑誌にも書かれていましたが、全部の向精神薬をご自分で飲まれて、効いてくるスピードや作用の強さなど、ご自分で分かって処方されているということで、神田橋先生でもとてもまねのできることではないと言われています。
もちろんすべてのことを体験することはできないのですから、体験しないで事に当たることもあります。この場合は、相手の立場をよく考えて、想像力を働かせ、相手の気持ちに寄りそうことで、いくらかでも実体験からの感情に近づけるのではないかと思っています。本に印刷されている活字による文章を読みながら、そこに書かれている人物、風景、その人物の声など、自分の中で描いています。それがテレビや映画になると、えっ、これってイメージ違うよ、なんてことを私たちはよく経験します。
先日の新聞に、ハーレムを舞台に過酷な運命を生きる16歳のアフリカ系アメリカ人少女の人生を描く人間ドラマ「プレシャス」のことが書かれていました。主人公プレシャスを熱演したガボレイ・シティベは、俳優でもなく芸能活動をしていたわけでもなく、大学で心理学を学ぶ傍ら電話オペレーターの仕事をしている時期に「プレシャス」のオーディションを受け主役に抜擢されました。この原作の著者とあって話を聞くと言うことを、ガボレイ・シティベは断ったそうです。本を読んで、すでに自分の中にプレシャスのイメージができているから、著者に会うことはしない、という理由だそうです。これが女優として初のキャリアでしたが、アカデミー賞主演女優賞にもノミネートされたそうです。文章から自分でイメージを作っていく、と言うところが本の持つ素晴らしさだと思います。
3Dですべて作られた人工的なものには、本の持つこの素晴らしい潜在力が欠けていると思います。デジタルの時代に、非常にアナログ的で、先端的でなく、進歩的でもない本の世界が、デジタル時代の申し子のようなゲームや3Dが与えることのできないものを、私たちに与えてくれます。まだまだ本の世界は、捨てたものではありません。
|