BPDの根源に他の人より特に強い見捨てられ不安があると言われています。
ASK選書14に「苦しさの一番奥にあるのは見捨てられ不安だった」というブックレットがありますが、その中で、臨床心理士の遠藤優子さんはユニークな観点から、見捨てられ不安をとりあげられています。そうなんだろうなあとも感じます。以下は遠藤さんの文章の要約です。
見捨てられ不安とは人間間関係の問題ではありません。これは自己愛の問題です。見捨てられ不安は存在の不安として自覚されます。自分はここにいてもいいのだろうかという不安です。このような自己肯定の問題があるために、ここにいても大丈夫だという承認欲求が生まれます。大事にして欲しい、愛して欲しいという欲求です。
やっかいなことにこの欲求は決して言葉では表現されません。「私を認めて欲しい」「大事にして欲しい」と自分から頼んだとしたら、頼んだものが得られてもちっとも満たされないからです。
「こうして欲しい」と一切表現せず、相手が自ずから気づいてくれて、相手自身の願望で大事にしてくれたり、愛してくれるのでなければ意味がないのです。
しかし、どうして欲しいか言葉にしなければわかりません。「言わずに察して満たして欲しい」という承認欲求が強くなればなるほど、見捨てられ不安も強くなります。さらに、相手は自分の欲求に応えてくれずに見捨てるにちがいないという予期不安まで出てきます。しかし、こんな欲求に応えられる相手なんて現実にはあり得ないわけです。
例えば、摂食障害は「弱さを表現していい病気だ」と言われています。何らかの形で「私を愛して」「私を認めて」と表現するのです。
見捨てられ不安が人間関係の問題というよりも、本人の自己愛の問題だとすると、どうすればよいか。それはその瞬間瞬間に自分に向けられた承認や愛情を本人が受け止められるようにすることです。例えば、誰かがにっこり笑ってあいさつしてくれたとか、誰かがその服素敵だねと声をかけてくれたとか。些細なことでもそれがたまっていけば「この世界もなかなかいいものだ。自分もこの世界に受け入れられているようだ」という感覚が養われていきます。
以上が遠藤さんの文章です。
よく、心理学の本なんかに赤ちゃんとお母さんの関係が出てきます。小さい頃は遊びに夢中になってしまい、気づいたらお母さん(絶対的な安心・安全な対象)が近くにいないで、どこかに行ってしまった状況を認識すると、赤ちゃんは必死に泣き叫ぶ。しかし、ある程度大きくなって、「心の中にお母さん」ができてくると、たまにいなくなっても混乱しなくなる。さらに安全基地が家にあると、外にでかけて他の人に接するという冒険もできてくる。何かあったら泣きながら家に帰ってきて、お母さんに抱っこしてもらう。こんなことを繰り返しながらだんだん、親との距離をとりながら自立していく。そのうち、親に代わる安心・安全対象(恋人)を見つけ、そこがその人の安全基地になるということかなと思います。
BPDの人は言わないでもわかって欲しいではなく、やはり口に出して言う練習、相手の方はBPDの人が言いやすい環境作り(正論を言うのではなく、まずは聴く)によって、問題行動(リストカット等)を減らすことができるような感じもします。