2020年8月アーカイブ

キーシャ:承認と不承認

キーシャの母親は説明します。

「キーシャは本当に敏感すぎます!一人の友人との間に一つでも問題があったら、娘にとってはこの世の終わりのようなのです。私も自分の友人たちといくつも問題を抱えたことがあるから理解できる、と言って安心させようとすれば、あの子はそれこそ爆発します。私が何とか力になろうと必死なときにそんな態度を取られるのはとても不愉快です。娘はただ私を押しのけるんです。それで私は傷つき、怒って、たいてい自分の部屋へ行って泣いて、もう滅茶苦茶な状況になってしまいます。」

キーシャの父親も付け加えます。「そう、事態がそんなに大事ではないことを知らせ、何かアドバイスしてみようとすると、娘はわかってないのよ、と泣き叫びながら部屋から飛び出して行ってしまうのです。」

キーシャの問題を助けようとする両親の試みは全くもっともなことですし、明らかに善意によるものです。私たちの誰もが直感的にそうするように、母親は娘を安心させようと行動し、父親は問題解決を助けようとしています。しかし、娘の力になろうとする彼らの試みは的に届いていません。

彼女について二つの仮定をしてみましょう。第一に、彼女は最も過敏な極に位置する感情的システムを持って生まれたとします。第二に、彼女は自分の感情を効果的に統制し、調整するために必要なスキルを発達させてこなかったと考えてみましょう。彼女の両親の話がこの仮説を確証しているように思われます。結果的に、キーシャは感情的に脆弱だろうと考えられるのです。

感情的に脆弱な人々はたいてい感情的に敏感で、親や他人を生き方のモデルとして学ぶことが十分でなかったり、自分の感情的経験を承認されていないため、感情調整スキルが欠けています。

ここで、承認という概念と、その反対の概念である不承認に立ち戻ってみましょう。他人を承認するというとき、私たちはただ、自分は相手の最近の経験と、その状況下でそれがどうやって感情を引き起こしたのかを理解していることを伝えるだけであることを思い出してください。その人の経験をありのままに受け容れるだけで、批判したり解決策を提供することはしません。問題解決はもちろん非常に重要ですが、承認とは正反対のものとしてとらえられます。承認しないというとき、それは自分とその人の関係において、相手の最近の経験を妥当なものとはみなさない(その状況では大げさまたは不正確だとする)ことです。

承認は子育ての重要な鍵です。私たちは子どもを承認するとき、彼らに、彼らの内的経験を正確に分類しそれらの経験を信頼すること、そしてそれらを自己承認と効果的な問題解決のために利用する方法を教えているのです。子どもを承認しないときには、まさしくその正反対の状況を創り出します。子どもが感じていることは正しくない、あるいはその状況に不適切であると彼らに教えることになるのです。親による不承認の例を二つあげます。

・「おまえは傷つくべきじゃない、あの子がお前をあんなふうに扱ったことに起こるべきだ」

・「それであなたはパーティに招かれなかったのね。そんなことは大した問題じゃないわ、結局、あの子たちはあなたのことをほとんどわかっていないんだから」

どちらの例も親は子どもの助けになろうとして言っているのですが、このような対応が子どもの経験を不承認していることが、もうおわかりでしょう。

 

 

次回は「二つの落とし穴」をご紹介します。

 

「自傷行為救出ガイドブック -弁証法的行動療法に基づく援助-」 マイケル・ホランダー著

皆さんの子どもと皆さん自身を承認する

セリアの母親は娘の感情的苦悩を承認しませんでした。彼女は、回避することで自分自身の心配も不承認することにしたようです(自己承認も必要です。私たちは自分自身を承認するとき、回避や価値判断をすることなく、自分の感情的経験をありのままに受け容れているのです)。もし、このやり取りが次のようなものとなっていたなら、もっとうまくいったかもしれません。

 

「そう、ジュリアはまたそんなことをしたの。確かにね、あの子には本当に腹が立つと思う。そんなにイライラさせる人を好きになるのはきっと大変でしょうね。何か私に役に立てることがあるかしら? ないの? いいわ、それなら。あなたは怒っているから、たぶん個別指導のことを忘れてしまったんじゃないかしら」

「私、行かない」

「そう、とても傷ついて腹が立っているときに気持ちを切り替えて、個別指導について考えるのは本当に難しいわよね。それはよくわかるわ。でもね、これは約束なの。あなたは十分後には出発しないといけないのよ」

 

私の経験では、不承認は、一般に子どものためを思う親のもっともな善意から生じています。承認と不承認というと、咎めている、あるいは批判しているように聞こえるかもしれません。しかし私は皆さんを責めているわけでも、皆さんの子どもの問題の責任は皆さんにあると言っているのでもないことを理解してください。私たちの善意がどうしたら失敗してしまうのか、また事態を改善するために私たちに何ができるのかという例として、読んでいただけたらと思います。

承認と不承認には様々な程度があります。三つの重要な要素が、そのような感情的危機において皆さんが成功する可能性を最大限に引き出すでしょう。第一に、皆さんの目標をはっきりと明確にしてください。先の例で言えば、目標はセリアを定刻に個別指導に到着させることです。第二に自分自身の承認を確実に行い、どのようにして自分の感情に対処するかを決めてください。セリアの母親はたとえ効果的でなくともセリアに個別指導に行くよう声をかけることで、これが自分のやり方であるということを受け容れ、娘の将来について心配する自分の感情を「承認」する必要があったのです。最後に感情的危機を鎮める手助けとして、子どもを承認することに取り組んでください。セリアの母親は、自分がセリアの心の傷と怒りについて理解していることを示したとき、セリアを承認したのです。

  幼い頃から、皆さんの子どもは生きていくうえで傷つくことや失望することに対して、他の子どもたちよりも敏感だったかもしれません。皆さんが子どもの感情的反応をこれまで重要視してこなかったか、「あなたが思うよりも事態は悪くない」と言って子どもを安心させようとしてきたとしても無理はありません。

これは親の善意がかえって仇となる状況です。親にとって、学童期に子どもの敏感さに気づくことが難しいことがあります。なかには、青年期までは何もかも順調にいっていたのに突然脱線してしまい、まったく別の子どもを扱っているようだと言う親もいます。感情的に敏感な子どもの中にも、幼少期の中頃まではあまり問題がなかった子どももいると思われます。その頃までは子どもの行動規範がより明確だったため、親は子どもの抱える困難の多くを解決できましたし、実際に解決してきました。ところが十代になって新たに生じる要求(生物学的変化、感情の振れ幅、抽象的思考の知能力、実社会における可能性の広がりなど)は、しばしば子どもたちを岩だらけの荒地へ導いてしまうのです。



次回は「キーシャ:承認と不承認」を紹介します。


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セリアの母親はこのように話します。

「昨日、セリアは学校から帰宅したとき、本当に怒り狂っていました。親友のジュリアと喧嘩をしたのです。娘は週に五回はこの『親友』と同じような喧嘩をするので、これはちょっとした日常茶飯事になりつつあります。セリアが自分の部屋へあがって物を周りに投げつけて、悪態をついているのが聞こえました。あの子が非常に感情的になると、私は本当におろおろしてしまいます。ですから私は、娘が自傷をするかもしれないということを何とか考えまいとするのです。私には、セリアがその日、全国統一試験の個別指導に行かなくてはならないことを忘れてしまっているとわかっていました。指導の時間に間に合わせようとするなら、そろそろ準備をしなければなりませんでした。私はただ二階へ上がっていって、落ち着いた声でセリアに、あと十分のうちに出かける必要があるわよ、と言いました。実を言うと私は冷静を装ってはいましたが、今回も娘が数時間、滅茶苦茶になってしまうのではないかと心配しないように心を抑えていたんです。

セリアは、行かない、と言いました。たぶん私はあんなことを言うべきではなかったのでしょうが、これが将来的にどれほど重要なことを娘に思い出させました。娘が今、大学に行くことよりももっと大きな問題を抱えていることは私にもわかります。でも、娘が自分の人生を台無しにしてしまう決断をしようとしているのではないかと私はとても心配なんです。ママはわかってない、とセリアは叫び始めました。私の関心はもっぱら大学のことでした。私は娘に、ジュリアは負け犬よ、と言ってしまいました。どうして娘にはそれがわからないのか、私には理解できなかったのです。」

 

この話を聞いて皆さんには何か思い当たるところがありますか? セリアの母親は状況を冷静に抑えるために初めはベストを尽くしました。セリアの精神状態を考えてみれば、それは意味のあることでした。では何がいけなかったのでしょうか?

セリアの母親の戦略は娘の精神的苦痛を無視し、代わりに「定刻に家を出る」という問題に集中しています。問題の核心にあるのは、承認が欠けているということです。私たちの誰もが犯すよくある過ちですが、それがありとあらゆる種類の困難を招く可能性があります。誰かを承認するというのは、「その人の経験を皆さんが理解している」ことを伝えるということです。それを好きになる必要も、あるいは同意する必要もありません。ただ、ありのままを受け容れて認めればいいのです。承認がない状況では、人とのコミュニケーションはますます膠着する可能性が高まります。

友人が皆さんを傷つけたと想像してみてください。そして皆さんの夫(妻)があなたに、それは「大したことではない」のだから、そんなことでいちいち目くじらを立てるな、と言ったとします。それにどれほど効果があるでしょうか? もし、それが本当は大したことではなかったとわかったとしても、皆さんは夫(妻)に、それが今は自分にとってつらいことなのだということをまずは理解してほしいと思うのではないでしょうか。

 

次回は「皆さんの子どもと皆さん自身を承認する」を紹介します。

 

「自傷行為救出ガイドブック -弁証法的行動療法に基づく援助-」 マイケル・ホランダー著

 

気晴らし

最後に、私たちは感情調整戦略として気晴らしを利用することもできます。他の戦略と同様、気晴らしも通常は自分の感情的経験を同定し、分類することから始まります。しかし、その経験があまりにも強烈なために感情を明確に分類することができない場合には、気晴らしを用いて感情の強度を低め、自分の精神状態がより理解しやすくなるよう試みることができるのです。

 

たとえば金曜日の午後遅く、皆さんは上司から送られてきた、皆さんの仕事を批判するような内容のメールを開きます。それを読んだとき、上司が十分な情報もないまま批判をしていることに気づきます。残念ながらその上司はもう退社してしまっており、火曜日まで出社しません。

皆さんは自分の中に怒りがこみ上げてくるのに気づきます。そこで皆さんは、週末は活動的な趣味や友人たちと過ごすことで自分自身を忙しくしておくのがよいアイデアだろうと判断します。皆さんは電話をし、これからの二日間の予定に打ち込むことで自分の怒りから気を紛らわせるのです。

 

 

 

次回は「環境的要因:よかれと思ってしたことがうまくいかないとき」を紹介します。

 

自分の気持ちと逆の行動をする

私たちの感情はすべてそれらと関連する行動傾向を持っています。つまり、感情は私たちに何らかの行動を取りたい気持ちにさせるのです。たとえば、悲しかったり落ち込んだりしたとき、私たちはぐったりと消耗した気持ちになり、そのために横にならずにはいられなくなることがよくあります。恐ろしいときにはしばしば逃げ出したくなります。恥ずかしいときには隠れるか、さもなければ消えてしまいたくなるでしょう。

こうした感情の持続時間と強度を変えるためには、まず最初に自分が何を感じているかを理解し、第二に自分はもうそれを感じたくないと決意します。そして第三にその感情が自分にさせようとして促すこととまったく正反対のことをします。皆さんの気分が落ち込んで、皆さんに「ベッドに入って布団をかぶりなさい」と言っているなら、代わりに何か活動的な行動に打ち込んでみましょう。

 

15歳のモーリーンはDBT(弁証法的行動療法)を受けています。彼女は緊急電話で私を呼び出し、ひどく落ち込んでしまってベッドから出られない、全然力が入らないのでいとこたちに会いに行くこともできない、と言いました。

「彼らはみんな、すごく完璧なんです。でももし私が行かなかったら、両親に殺されちゃうわ」

「うーん、困ったね。君は板挟みになってしまったのだね。何か出口を見つけることにしたほうがよさそうだけれど、しかしそのためには本当の努力が必要となるだろうね」と私は答えました。

彼女は「私にはそのエネルギーがないわ」と答えました。

「そうだね、それは抑うつ状態が私たちに感じさせることなんだよ。抑うつは私たちから力を奪ってしまうんだ。だから、そうなったら誰でも寝込んでしまいたくなる」と私は言いました。

「でも私は家にいる場合じゃないのよ!」とモーリーンは叫びました。

「よし!今こそ、今の感情と正反対の行動を取るべきときなのではないかな。このスキルが作用する仕組みを覚えているかい?」と私は提案し、尋ねました。

「ええ、私は、私の抑うつが命令することと正反対のことをしなければならいのでしょう。たとえ私がまったくエネルギーがないように感じても、私は私を起き上がらせて、ベッドからでなくてはならないのよね」

「そう、その通り。そして君はその行動に100パーセント、エネルギーを注がなければならない。中途半端ではだめなんだ」と私は言い添えました。

「自分でも、本当にそうする必要があると思うわ」彼女は答えました。

 

 

次回は「気晴らし」を紹介します。

 

「自傷行為救出ガイドブック -弁証法的行動療法に基づく援助-」 マイケル・ホランダー著

自分自身に違う物語を語る

次の問題解決戦略は、私たちの感情的経験に「再評価」と呼ばれる処理を行うものです。再評価とは、その感情を喚起した出来事について自分が行った最初の解釈を変えるということです。たとえば、皆さんはスーパーにいて、最近皆さんがディナーに招待した友人が向こうからやってきたとしましょう。ところがその友人は気づいた素振りもなく皆さんの側を通り過ぎてしまいます。すると、ほとんど即座に皆さんは、傷つき腹立たしく感じます。皆さんの心はその状況を説明するために物語を作り始めます。 「ダニエルがあんなふうに私を無視するなんて信じられない。きっとあの人はディナーが楽しくなかったのよ。でも、いったいどこに人を無視する友人がいるというの? あの女、自分を何様だと思っているの?」 - このままでは間違いなく、皆さんはこれらのネガティブな感情をぐつぐつ煮込み続け、ピリッと辛い心のシチューにしてしまうでしょう。

代わりに、皆さんが自分の感情に反応する中で別の物語を自分に語るとしたらどうでしょう。その感情を引き起こした出来事を再評価、すなわち異なる解釈をすることです。自分自身に別の物語を語ってあげてください。たとえば、「傷ついたわ...。でも、ダニエルが私に気づかないなんて、よほど何か考え事をしていたに違いないわ。大丈夫かしら? 後で電話してあげましょう。」

   なぜそれが起こったのか自分でもわからない状況が生じ、気づいたら自分の気分をより悪くさせる物語を作っていたという場合において、これは素晴らしい感情調整戦略であり、役立つツールとなります。



次回は「自分の気持ちと逆の行動をする」を紹介します。


「自傷行為救出ガイドブック -弁証法的行動療法に基づく援助-」 マイケル・ホランダー著

感情の観察と言葉による描写

場合によっては、自分の感情を簡単に同定して正確に分類するだけでその強度を和らげることができることもあります。その瞬間の自分の感じ方を単純に、ありのままに受け容れるということです。たとえば、「自分は夫に対して腹を立てている」ということを認めるだけで、あえてその感情に手を加えたり、あるいはその感情を意図的に遠ざけたりしなくても、自分の感情を調整するうえで役立つことがあるのです。

 

数ヶ月後、前述のライザは次のような成功談を語りました。

「私と友人たちは昨日、マージョリーの家にいました。ダンスパーティに何を着ていったらいいかについて話していたんです。私が自分のドレスの説明をしたら、ジーナはそれをからかったの。今回は私、先生と一緒に練習してきたスキルのいくつかを使って、自分の感情をただ観察して、それを自分自身に言葉で描写してあげたの。侮辱され、傷つき、腹を立てている、というようにね。それは本当にうまくいったわ。私はジーナにまだ腹を立てていたけれど、でも実際、それほど圧倒されるようには感じませんでした」

 

 

次回は「自分自身に違う物語を語る」を紹介します。

 

「自傷行為救出ガイドブック -弁証法的行動療法に基づく援助-」 マイケル・ホランダー著

 

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