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三世代の精神分裂症

著者:ルーシー・フックス  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin Vol.12,No.4,1986]
イプセンは“幽霊”の中でそれを悲劇的に扱い、ギルバートとサリバンは“ルディゴア”でユーモラスにそれを扱いました。ここで私が“それ”と言っているのは、狂気のかたちである家に代々受け継がれていく呪いのことをさしています。私にとって“幽霊”はその恐ろしい筋書きゆえに楽しめず、“ルディゴア”の明るいばかばかしさの方が愉快でした。そのどちらの戯曲に接した時も、私は遺伝する狂気という主題を現実味をもって考えることはありませんでした。ずっと後になって、私は自分の家族がその後数世代にわたり影響を与える悲劇を上演していたことを知ったのです。自分が選択したわけでもないのに、子役として私は強制的に端役をあてがわれ、そして悲劇の展開が進むにつれて容赦なく大きな役割を演ずることになりました。その悲劇とは精神分裂症のことです。

幼い頃、私は父の叔父に対する訪問に気がつきはじめました。その訪問は3時間ものあいだバスや電車を乗り継いで行く、悲しく神秘的な場所への旅でした。それがあまりにも悲しみに満ちているものなので、心優しかった私の母でさえ行きたがらないほどでした。彼女はしかし、前日から父と叔父のための食事を用意していました。訪問旅行の当日は朝早くから両親はご馳走や、繕い終わった下着、雑誌や叔父の気を紛らわせるための絵描き道具などを荷造りしていました。その翌日は結果 報告にあてられました。「先生はなんて言っていた?」これは私にもよく理解できました。「アーロンはどんな風に振舞っていたの?」という質問は、大人の行動の中に子供っぽさと不品行の要素があるのを意味するので、私を多少不安にさせました。歳をとるにつつれ、私には父がこの訪問旅行の度に以前より一層つかれがひどくなり、叔父の症状に改善がみられないことへの失望がより大きくなって行くのがみてとれました。中でも最も悲しかった訪問は、父が帰ってきて叔父が“重症病棟”に移されたことを告げたときのものでした。1940年代の終わり頃、両親は叔父に医者から勧められたロボトミー手術を行うことを真剣に考え、そしてそれが最良の選択と信じて施術を承諾しました。しかし手術は成功しませんでした。叔父は80歳代でピルグリムステートホスピタルで亡くなりました。彼はそこに60年間入院していたのです。

叔父には私が大人になるまで会いませんでしたが、彼の自画像は我が家の居間に飾ってありました。彼のハンサムで思い悩むような風貌は、勿体無いという感情を私に抱かせました。私には他にも叔父が何人かありましたが、彼ほど若く、芸術を志すものはいませんでしたから。

この悲しい病気の原因は一体何か?叔父の患っていた病名を知ることなく、私達は皆精神分析的考え方を受け入れていたようです。叔父の母である私の祖母は、気品ある、けれども冷たい女性でした。ですから精神分裂症は母性の拒否に始まるという考えに立てば、それはまさに場所を得て成長したものと言えます。

叔父の異常は病名もはっきりとしていて、発病は突然やってきました。しかしより悲劇的であったのは私の兄の異常でした。それは病名を持たずに長い潜伏期間を経てあらわれたのです。聡明でハンサムな5歳年上の兄は、両親からは愛され、学校では教師達の人気者でした。彼はしかし仲間の子供達には興味を持ちませんでした。彼が歳をとるにつれて両親は、彼の大人にたいする興味に不安を持ち始めました。私も両親同様そのことを気にかけていて、40年たった今も彼がめずらしく2人の少年を家に招待するかもしれないといった時の、私達の興奮を覚えています。結局その招待は実現しませんでしたが、2人の名前はいまだに記??憶しています。こうして微妙に兄妹の順序は逆になり、私は兄のために譲り、理解することを強いられたのです。

自分の友人がいないせいか、兄は私に威張りちらし、よくからかいました。私を相手に遊ぶことはほとんどなかったものの、彼は私が他の子供と遊んだりするのを嫌い、それを中断させたり、また新しい友人を家につれて来たりするとあきれるほど不機嫌になったりしました。最も辛かったのは、彼の機嫌が突然変化することでした。彼の指示に従わなければ彼の怒りにふれ、彼の圧力に屈すれば私の自尊心が危機に陥るのでした。この選択は私が兄を愛しているだけに苦痛でした。彼が青年になると、両親に対しより批判的で、怒りっぽい態度をとるようになりました。私達3人は対立を避けることになれてきました。クライマックスは、彼が16歳のころにやってきました。兄が地元の大学に行くようになって、勉強に問題が生じ始めたのです。今の私にはその原因のひとつは精神分裂的な思考の欠如ということが分かります。両親は彼を精神科医に診せましたが、最初の診療に行っただけで、二度とその精神科医のところへ彼はは行こうとしませんでした。

これらの問題にも関わらず、兄は英雄的な努力を続けたに違いありません。その後大学を卒業したのみならず、陸軍での兵役に数年間服したのですから。実戦には参加しませんでしたが、上官である将校達のもとで、諜報部隊に配属になりました。彼らは兄の誠実さと、厳格で宗教的な風貌をかったのです。彼の書いてくる手紙は愛情に満ちていて、長いものが多かったにもかかわらず、家に帰ってくると、同居するのが難しいほどの人間に戻ってしまうのです。彼は私の婚約を認めず、母が不治の病に倒れた15年前まで、私と関係を絶って話かけようともしませんでした。この間兄は自分で対処可能な人生を組み立ててきたのです。彼は結婚をせず、厳格な宗教者となり、多くの時間とエネルギーを年老いた両親の介護に費やしました。彼は下町の小学校教師として、規律と体系立った思考を必要としている子供達にたいして、厳格ではあるが、公平な教師としての評判を確立してゆきました。彼はその厳しい宗教仲間から何人かの友人ができ、彼が一生独身を通 すものと諦めていた両親を少しは安心させました。両親は兄の仕事への関わりと、とうとう友人ができたということに、満足感を見出したのです。私が兄のこの長期間にわたる適応について具体的に述べている理由は、不幸なままに愛する者へ苦痛を与えながらも、正式な診断もされずに治療の外に追いやられている、“緩やかな精神分裂症患者”達に、より多くの注意が払われてしかるべきと考えているからです。兄は最終的には自分で自分の症状に診断を下しました。彼の怒りは彼の妄想的思考が緩むにつれて収まってきました。彼はもう私と私の夫を邪悪な人間とはみなさなくなったのです。彼は私達の娘が精神異常であることが判明したとき、自らの診断の内容を私達に教えてくれました。

兄は私達の助けになりたいと考えたのでしょう。他の病気で服用している薬をのんでいる間は思考能力が改善されること、問題を起こす時に彼の心の中にある声に、何う反論しているか私に告白しました。それは「もう少しましなことを言えないのなら、だまっていろ!」というものでした。この思いがけない告白を聞いてはじめて、私には彼の問題が何であるかを確定することができたのです。彼が私を理不尽に非難し懲罰的な態度をとるときには、精神分裂症と考えましたが、彼の非難が若干でも事実にもとづくものであるときには、強迫神経症と私は診断しました。いずれにしても、彼は自らの経験から、私達夫婦が妄想がちの娘への思いやりと支援を続けるように、そしてなにより希望をもち励ますことの必要性を、進言しました。家族の関わり合いはこうして長年の苦痛、狂気や混乱をのりこえ、将来の家族内の地道な付き合いと喜びが多少とも約束されるようになりました。

診断が遅れた分、被害をこうむるのも遅れました。両親に対して同情的ではあったのですが、私はまたその時流の考え方に影響を受け、心の中では彼らを責めていました。今は、精神障害をもつ息子と暮らすことが、もともと優しく用心深いこの人達の心配をどれほど増幅したかが理解できるようになりました。当時は、私の兄の問題は両親自身の不安や、彼の感情的爆発に??対する周囲の馬鹿げた屈服に原因があるのだという、隣人や親戚 のいう意見に組するのは簡単なことでした。今日のある家族セラピストは、患者以外の家族の病理を無意識的に行動に表す“同一患者”の理論をもとに、この立場に危険なほどに傾いています。ある特定のケースではこれは正しいかも知れません。しかしこの考え方が冷淡にも無視しているのは、精神障害者をもち、ともに暮らす家族のなかに発生する避けられない変化についてです。若い頃私は、自分が親になったら決して一人の子供を無視し他の子供をひいきしたりするまい、そして人生をより多く楽しもうと心に誓いました。決意としてはよいものですが、生物学的あるいは遺伝学的な破局にたいする防御にはなりません。私の若い頃のことを思い返すと、私がなぜ障害を持つ人々に興味をもち、幸せで健康な家族をもちたいと願った理由は明らかです。物事はうまく運び、主人と私は私達の子供達が小さいうちは彼等の将来に自信をもっていました。もちろん完璧な子供などいませんし、どんな人生にもある程度苦痛と努力があることは知っています。ですから二番目の子、スーザンがとても静かで恥ずかしがりやの幼児になったとき、私はそれが彼女にしかない性格の長所だと考えました。この娘よりもより外向的な性格の息子のほうに皆が注意をむけたりすると、私はそれが不思議でならず、より彼女を可愛がるようになりました。思い返せば、非常に早くから私は彼女と外的世界との間のギャップを、彼女へより注意を向け、より彼女と多く遊び、保護することによって埋めていたのがわかります。ゆっくりとそしてごく自然に、私は彼女のやり方と彼女の幸せに対する責任感に自分を慣らして行きました。小さい頃の遠慮勝ちな性格にもかかわらず、7~8歳になるころには彼女はエネルギッシュで好奇心旺盛な子供に育ちました。学校での成績は良く、読書好きで、体育の成績も良好でした。それにもかかわらず、彼女は友人をつくることが出来なかったのです。彼女は恥かしがりやで、傷つきやすいのですが、批判的で議論好きでもありました。私達はいつかは彼女に親しい友達のひとりかふたりはできるものと思っていましたし、彼女の理屈っぽい議論なども、確固たる意見をもち、独立心の強さゆえと考えていました。彼女は間違いなく将来弁護士などと冗談に言っていたくらいです。

高校へ進むころまでには、スーザンはより外向的になりました。彼女の知性と旺盛な好奇心や活発な行動に惹かれて、友人になる可能性のある人々が集まってきました。しかしながら、彼女は依然として傷つきやすく、対人関係は常に揺れ動く激しいものでした。この時期は私にとっても混乱とストレスの多い時期でした。彼女が泣いて慰めを求めてくるのは常に私でしたが、私は私達の関係に暖かさと相互の思いやりが欠けている事に気づき始めたのです。それはもう以前のような楽しい関係ではなくなっていました。そこにはバランスがなく、娘と暮らすことは感情的に消耗を強いられるものとなりました。それでも私はまだ、彼女が思春期を迎えているだけのことで、私は単なる過保護な母親という一般 論を受け入れていたのです。スーザンが15歳になって初めて私達は専門家に相談を求めました。彼女が作文の宿題を終わらせることができない、という新たな兆候の出現があったからです。考える事が出来ない、気が狂いそうだ、と打ち明けたことも一、二度ありました。これは私の想像の範囲をこえていたのですが、彼女にはほとんどの人が思春期になると不安になるものよ、といって安心させようとしました。精神科医にとってもそれは分析能力を越えたものでした。というのもその精神科医は私に、彼女は少し自分に対する自信に問題があるようなので、彼女との間に距離をおくように、と忠告したからです。私はこれに従い、彼ともうひとり、大学で彼女を診ている精神科医との診療には参加しないように心がけました。大学ではスーザンは相変わらず起伏の激しい生活を送っていました。強い参加意識と苦痛にみちた失望、そして作文能力の問題です。今にして思えば、この二人の精神科医がしてくれた良いことといえば、それは彼らの洞察力にもとづいたものではなく、彼らとの付き合いや支援から得たものでした。スーザンは3年生で大学をドロップアウトし、その2年後に神経衰弱の発作を起こし、初めて彼女が精神分裂病であることが分かりました。今からおもえば多くの早期の兆候がありました。今は“普通 の思春期”という言葉のもつ安易さをあらためて問い直しています。またあまり早期に精神分裂症と診断すると、仮にそうでなかったとしても必然的にそうなってしまう、という理論の妥当性も問い直??しています。では神経症と誤診断された場合はどうなるのでしょうか。一体ほかのどの分野で無知であることが有利にはたらくということがありましょうか。危険因子を持つ子供を早くから診断することが、早期からのより適切な処置につながるということの論証は容易に得られるはずです。私は、専門科医の意見を聞いて、彼女の思春期に自分を遠ざけてしまったことを強く後悔しています。精神分裂病患者は、すでに周囲とかなりの距離を感じているのですから。

その他にも多くの変化の成長型を探ることが出来ます。たとえば、私の兄や娘に共通 な強圧的で議論好きな性格は、目じるし的な特徴と考えられないでしょうか?これと内気な性格とが結びついて、通 常とはちがう認識を他人と共有しようとし、それが失敗すると傷つき後退することが、最初の兆候と考えられないでしょうか?

スーザンは放浪生活を続けながら、23歳で緊張型分裂病患者になりました。彼女は警察の保護を受け、病院に収容されましたが、患者支援団体の助言があり病院の反対を押し切って解放されました。病院にいた3日間、私達はそこで彼女に必要な援助が得られることと、胸をなでおろし安心しました。しかし彼女がそこを解放されたことと同時に彼女の診断が精神分裂症であることをしらされ、( 以下一行コピー切れのため不明)

スーザンはその後1年半のあいだ、いろいろな町を放浪し、通 りや保護施設で夜を過ごし、あるいは友人の家を泊まり歩いたりしておりました。彼女は数週間に一度連絡をくれて、時たま電話で根拠のない言いがかりや脅しを言うことがありました。彼女が定期的に家に帰ってくる時は、私達は優しく対応し、世話を焼き、精神科医による診療をすすめるのですが、押し付けることには恐れがありました。あるとき私達が強い態度に出たときには、彼女は結局激高して家を出ていってしまいましたから。彼女の二度目の緊張型分裂病の発作は幸いなことに私達の家を訪問している時に起こりました。準備の出来ていた私達は、彼女を近くの病院へ入院させ、担当の精神科医も決めました。投薬による治療が効を奏して、彼女の妄想も良くなりました。彼女は見違えるほどに、優しく外向的になったのです。スーザンは更正施設に移され、そこでグループセラピーを受け、多くのスタッフと交流しました。私達は再び希望をもちました。しかし、彼女は投薬治療の副作用で部屋の中を行ったり来たり一月ほど繰り返して、突然投薬を中止してしまい、すべては水泡に帰してしまいました。彼女は放浪生活を再開しました。私達は彼女が自ら経験した良い結果 から、進んで治療を再開してくれることを望んでおりました。私達は病的思考が彼女を捉える時の魔力をまだ理解していなかったのです。私達の希望とは裏腹に、またスーザンとのメリーゴーラウンドのような生活が戻ってきました。再び強制収容、患者支援団体の“助け”による性急な退院、より自己破滅的な行動、助けを求める叫びと混乱に満ちた帰宅。

私達は彼女が将来援助を受け入れてくれのか、あるいは意義ある生活を手に入れることができるものかどうか分かりません。しかし、分からないまでも、私達は自分達の生活を続けて行かねばなりません。自分達同士のために、そして息子のためにも。すでに息子は残りの人生に多大の責任を背負って生きてゆかなければならないのですから、それにさらに追い討ちをかれるようなことは私達の望むところではありません。私の健康な息子は人生の通 常の苦痛しかしらず、一方の娘はいつも苦痛の中で生きてきました。私はこの二人のために、できるかぎり良く生きて行かねばならないと感じています。ひとはあらゆる悲劇の淵にあって、選択をし、楽しみすら求めなければなりません。この文をしたためながら私はこのことを自分に言い聞かせ、子供の頃から精神分裂症の兄弟と息子をかかえて苦労を積んだ父を見ながら、そのとおりにしてまいりました。
筆者について

ルーシー・フックスはニューヨークシティー大学で学士課程を修了し、ミシガン大学で社会事業の修士課程を修了した。彼女は東部ペンシルバニア病院及びアビントン精神病院に勤務し、ペンシルバニア州スプリングフィールド町区の学校での精神衛生プログラムを担当している。


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