きょうは良い日だ。日光が窓から注ぎこみ、猫達はフローリングの上で日向ぼっこをしている。私の1日は、日記帳を3ページほど記入して、健康食の朝食を摂り、エキササイズ・マシーンで運動のあとの入浴から始まる。これが私の日課だ。地に足を着け、目的意識を持つことを私はとても大切にしている。いまこれを書きながら、5年前、分裂感情障害(双極型‐bipolar type)と診断されて州立病院に入院してからのこれまでを振返り、その遠かった道のりに感慨を深くせざるをえない。
私の精神病との付き合いは、17歳のときのうつ病にはじまった。疎外感から抑制なく涙を流し、周囲で起こりつつある状況に自分の感情がついてゆけないことに不安を感じていた。高校の2年生から3年生にかけては睡眠時間がバラバラになり、自分の事をどうすることもできなくなってしまった。最初に精神異常の発作を経験したのはその頃のことだった。周囲の人達が心の中を覗いている、と私は思いはじめた。私が精神病で悩んでいるとは誰も知らずにいて、親たちは、私が"思春期"を通過しているだけ、と云ったけれども、私にはそれが別のなにかであることは分かっていた。
大学に入学し、私は専門医のところへ相談に行ったが、うつ病と誤診されてさまざまな抗うつ剤を処方された。そのほとんどは効果無く、かえって薬のせいで肥満していった。当時の私の考えは妄想的で偏執的だったが、それを私は外部には表すことはしなかった。例えば、その頃かなり有名だったあるロックバンドの歌が、自分について書かれたものだと私は密かに確信していた。同時に、私の双極型症状は激しさを増して行った。私はあとさきを考えないで向こう見ずに行動し、多くの異性と交際し、発作的な買い物を繰り返した。12年の間、私は基本的に何の治療も受けずに過ごした。秘書の仕事もなんとかこなしている状態で、まるで地雷原を歩いているような気分だったし、もし余計なストレスがかかろうものなら、爆発しそうなまでに緊張していた。
20才台後半になると、ストレスの原因は次から次へとやってきた。父の死、恋人との別離、そして失業。私は、戦いで疲弊状態になった兵士のように、もうこれ以上やって行けない、と考えた。頭の中で、多くの思考がすごいスピードで回転しているような気がして誰とも口がきけなくなり、完全に人見知りをするようになっってしまった。このままでは私の家族が自分を精神病院へ送るのは時間の問題と考え、自分が完全に狂っていないことを証明するために、アパートの部屋を熱に浮かされたようにきれいに掃除した。もしまた入院となれば、三度目の入院になってしまう。自由を奪われ、食事はまずく、運動もままならない。とにかく入院にまつわるすべてが私は嫌だった。しかし、やがて二人の男がやってきて、私を車の後ろに乗せた。病院へ着くなり、収監されるのだと知らされた。自分にも、そして他人に対しても危害を加える可能性は無いことを信じていたので、私は何故入院を強制されなければならないのか抗議したが、無駄だった。
迫害感情をともなったストレスと完全な無力感が、更に私の妄想を悪化させた。周囲の私への態度からみて、この迫害感は私には正当なものと思われた。裁判所へ召喚される頃には、私は自分の意見を言いたい気持ちでいっぱいだった。でもどうやって、説明すればよいのだろう。少しも私の立場にたって代弁してくれない弁護士に対する不満と、私の将来の決定権を握る裁判官を前にしたプレッシャーから、証人席に立たされた私は取り乱してしまった。そのときの私は、精神が異常をきたす前に読んだオランダの小説のことだけを考えていた。私が証人席で発言した内容は、他人には意味をなさないものだった。そして私は州立病院に収監され、そこで3週間、鍵付きの病室に閉じ込められた。病名は分裂感情障害、メソリダズィン・ベスィレート(mesoridazine besylate)とリチウム(lithium)が処方された。やがて開放病室に移る頃には、私の気分はかなり落ち着いていた。ピクニックや禁煙グループに加わり、週に数時間労働して、セラピー・セッションにも参加した。州??立病院を退院するころには、私は自立した生活に戻れること、デイケア に参加できること等の幸運を噛み締めるようになった。
デイケアを終えて、私は次の目標を学位取得に定めた。それまで私は、中断や再開を繰り返して通算14年間も大学に通っていたのだ。しかし勉強は簡単ではなかった。集中力が乏しいため何度も同じ文章を繰り返し読んで、それでも試験の成績は低かった。過去には、あまりのストレスから授業放棄も幾度かあった。さまざまな困難にも拘わらず(ある精神科医などは、卒業するのは無理だろう、とまで私に言った)、ついに私は1994年、ミネソタ大学で政治学の学士号を取得した。自分の置かれた条件を考えれば、平均Bで卒業できたことを私は誇りに思う。
卒業してからは、職業紹介所の協力を得て職探しを開始したが、自分の症状に照らしあわせて、フルタイムの仕事が無理なことは明らかだった(何ヶ月ものうつ状態で、睡眠時間は一日に14時間に達するようになっていた)。求職活動の面接では、自分の病歴を殆どの場合明かさなかったが、面接担当者が、私の"なにかがおかしい"ことを見抜きはしないかとおびえ、さらには過去の職歴に継続性がないことをうまく説明するのができなくなっていた。この職探しは1年間続き、成功することなく終わった。しかしその後、幸運にもヴェイル・プレイスを経由して、文書配達のパートの仕事が見つかった。この仕事は10ヶ月続いたが、妄想やストレスからくる症状に悩まされはじめて、契約満了前に退職せざるを得なくなった。お金は必要だったけれども、また入院生活を送る危険を冒すわけには行かなかった。
重い精神病にかかったおかげで、私の人生は壊滅的な影響を受けてしまった。他人との親密な関係は私には無い。つい最近、なにかの書物に精神分裂病患者は友人関係を造るのも、維持するのも不得手であると書いてあったが、私の場合はまったくそのとおりだと思う。いつの日か結婚し、子供をもうけようなどという夢はもう既に諦めた。そのかわり、私は自分の人生を執筆活動に捧げようと心に決めている。病からはなれて、自分の人生を意味あるものにしたいのだ。
私の職歴と学歴は、"普通"の人と対等に生活してゆく為に、私がいかに努力したかを示している。時には自分を他人と比較してがっかりすることも多い。しかし私は今、財務状況の立て直し中だ。病院に入院されたとき、私はふたつのクレジット・カード会社に小額の未払い残高と、多額の学生ローンをかかえていた。(私は、精神病で悩んでいる人は決して学生ローンを借り入れるべきではないと思う。病がひどくなり、ローンを返済できなくなった場合の救済措置が無いからである。)私の強制入院は自分に意志に反するものであったにも拘わらず、退院後には入院治療費を請求された。これについては手紙を何通か書き、負担を免除してもらった。
つねづね私は、患者への情報の殆どが単に精神分裂病の症状の解説であり、患者自身が(処方された薬を飲む以外に)自分でできることについての助言が少ないことに不満をもっている。私についていえば、いくつかの健康法が効を奏している。第一に、日記をつけること、これは私の混乱した思考を整理し、怒りを静めるのにとても効果がある。一年前にはこれで私は喫煙習慣を絶つことができた。第二に、これとは別に毎日の気分、投薬量、運動のメニューについて、簡単で読みやすい記録をつけること。この記録が過去の病状のサイクルを記してあるおかげで、ひどいうつの発作も必ず時期がくればそれが終わることを思い出させてくれた。第三に、私は箱を用意しておき、この中に、お金のかからないあるいは安価にできるアイデアをため込んでいる。孤立感を感じたり、なにか知的な刺激が欲しいときなどは、これが役に立つ。都会暮らしをしているおかげで、だいたいいつも何かすることを見つけることができる。第四番目には、自助努力の本を時々読むこと(私のお薦めは「自分の人生を獲得する」-Own your own life [Emery 1982]-である)。これらの本は精神分裂病患者のために書かれたものではないが、私は有益と思う。上記のような健康法は維持するのに努力を要するが、真剣に治療に取り組んだおかげで、私は大分良くなった。
この短いエッセイを書くことで、自分の生活の一部分でも紹介し、患者のなかで、大学に行きたいけれども無理ではないかと考えている方々に、希望を与えることができるよう願っている。精神病と精神遅滞とを混同している人に出会うことほどがっかりすることはない。私達は知恵遅れとは違うのだ。むしろ私は、薬物療法の効果がある精神分裂病患者は、積極的に治療を行えば、高いレベルでの活動が可能であると思う。精神病棟に閉じ込められていた過去にくらべれば、いまの私の人生はずっと明るいけれども??、それは決して楽なものではなかった。しかし私は困難に対処する方法を学びとることができた。いまの時間を生きること、そしてエアロビクスを続け、充分な"ペット療法"を欠かさないことが私の知る最良の方法である。
参考文献
G.エメリー著「自分の人生を獲得する:新しい認知療法が如何に貴方の人生を快適にできるか」-Own Your Own Life : How the New Cognitive Therapy Can Make You Feel Wonderful. New York, NY : Penguin Bookds, 1982
筆者について
トレィスィ・ダイクストラは小説家志望で、ミネソタ州ミネアポリス市内にネコ2匹と共に暮らしている。