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私の精神分裂病との出会いとその物語

著者:ロス・B・フォートナー/クリスティーン・スティール  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin Vol.14,No.4,1988]
精神分裂病は、通常思春期又は成人期の初期に罹患する精神病である。この病は、時として周囲の人間が患者に対してたくらみごとをしている、思考をコントロールする声が聞こえる、などの被害妄想や幻覚を伴い、社会的に不適切な行動を患者にとらせるなどの、複雑で時には恐ろしい面をあわせもっている。精神分裂病は100人に1人の割合で発病し、私はその不運な1人である。

精神分裂病は脳内の化学的不均衡、あるいは頭脳の構造や新陳代謝の違いによって起こるとされている。しばしばその症状は患者の生活の中での感情的ストレスの高まりとともに現れる。他の肉体的な病同様、精神分裂病も治まることはあるが、長期にわたる慢性の患者においては、その精神作用は漸次低下してゆく場合が多い。

私がはじめてその症状を経験したのは、法律学校を卒業して間もないころのことだった。その後何年ものあいだ、私の治療は、まさに自分の精神状態同様に混乱と戸惑いに満ちたものであった。初期の薬物療法やショック療法の結果は惨めなもので、どちらかと言うと、その失敗が私の被害妄想を悪化させたといえる。そのあとは、精神分裂病よりもむしろ、不安状態に対する治療を受けた。この治療は、私のかかえていた不安を抑制する助けにはなったものの、同時にあった隔絶感、引きこもり、被害妄想などの症状の改善には役立たなかった。再び精神分裂病の治療に戻ったときの私の主治医は、鈍感な上に不勉強で、薬物療法はせず話しあいだけで私を治療しようとした。現在私は、薬物療法、心理的カウンセリング、職業相談の三つの組み合わせで、普通の生活を送ることができ、こうして皆さんと、この困った病に私がどのように対処してきたの経験を分かち合うことができるのだ。

  1953年の春、私はウィットマン大学を卒業したが、その後なにをしてよいやら分からずにいた。私はまず兵役を済まさねばならないことだけは承知していた。その夏に、ワシントン州ワイツバーグのグリーン・ジャイアント缶詰 会社で主任計時者として働き、8月に入って朝鮮戦争終結の数日後、私は米国陸軍に入隊した。

最初の予備駐屯地であるワシントン州フォート・ルイスで、私はすべての身体検査・精神テストをクリアしたが、士官学校への入学は辞退した。この結果、私はテキサス州フォート・ブリスへ送られ、基礎訓練とレーダー操作の初期教育を受けることになった。レーダー学校を卒業し、次はサウス・キャロライナ州フォート・ジャクソンで事務タイピストを経験してから、アラバマ州フォート・マクレランへ着任した。1955年6月、私は陸軍を除隊し、西海岸北部の法律学校へ行くことに決めた。オレゴン州セイラムのウィラメット大学法学部へ入学が決まり、故郷のオレゴン州ベイカーの製箱工場で夏の間アルバイトをしたあと、1955年の秋、正式にウィラメット大へ入学した。

私は2.0の平均点で卒業し、司法試験を受けたが、合格点には2点ほど足らず、不合格になった。その後、州の高等裁判所で事務員として臨時雇いを経験し、1ヶ月後には州の法務長官の正式スタッフとして採用された。私の人生が崩壊しはじめたのは、その時からだった。

無事に兵役を終え、法律学校を卒業したあと、私はかなり重度の精神病-被害妄想型の精神分裂病-に倒れてしまった。上司である法務長官は、私の状態が日に日に悪くなって行くのを感じ取っていた。ある日、彼は私を車に乗せ、セイラムにある精神病院へと連れて行った。そこで私は長官と病院の監督医師に、入院を薦められたのである。

私には彼らがいったい何をいっているのかが理解できなかった。発病するまで私はごく普通の人生を送ろうと心がけていたのに。私の神経は苛立ち、この世の中はひどいところで、皆が私の行動を見張り、噂をしている、と考え始めた。私は、人々が自分をのけ者にしようとしていたり、あるいは自分を雪の中に埋めて凍らせようとしている、そしてラジオやテレビが自分のことについて放送しているような気がしはじめた。夜になると、アパートの周囲を車がクラクションを鳴らし_軒て走り回り、自分のことを笑い、やじり、からかいにくるのだと考えた。喋り方や立ち居振舞いは集中力を欠き、ぼんやりとしたものになっていった。私は怖くなって、ポートランドに住む従姉妹のところへ避難することにした。すると父がそこにやってきて、オレゴン州立病院へ、60日間でよいから入院するよう私を説得した。それは私にとって非常に困難な決断だった。州の精神病院へ入院するということは、すでに被害妄想や恐怖に痛めつけられている自分をさらに過酷な環境下に身をゆだねるという、信じがたい経験を意味し、精神的に最も不安定な患者にとっては恐怖を与える選択肢なのだ。

当時の病院側の記録にはこう書かれている:

「患者は周囲との順応に困難をきたしており、非常に疑い深くなっている。面談時の着座態度は緊張していて、話にまとまりが無い。問題は自分にあるのではなく、むしろ周囲にあると考えている。話し振りは、漠然と会話を過度に知的なものとする傾向がある。知的レベルは平均以上と思われるが、現時点ではそのレベルで機能してはいない。記憶は損なわれてはいないが、しばしば過去の記憶に誤解が見られる。彼の思考のほとんどを、漠然とした性的偏見と罪悪感とが混在する迫害意識が占めている。洞察力は無く、判断力は病気によってひどく損なわれている。抽象的思考にはかなり無理があり、ことわざ等の解釈は曖昧で不正確、且つ時に奇妙である。」

私は自分自身に危害を加える危険性があるとされ、閉鎖病棟に収容された。そして電気けいれん療法を13回にわたって受けた。この電気けいれん療法は、実にひどく辛いものだった。病院の古い建物の中、テーブルの上に寝かされた私のこめかみに、医師達が電極棒を当てるのだ。これには完全にまいってしまった。私はこの治療によって、意識を失ってしまうのが怖ろしかった。しまいにはこの治療を受けさせるために、医師達は私と格闘のすえにテーブルの上に力ずくで寝かせる始末だった。この電気けいれん療法の後は開放病棟に移され、その後ベイカーの両親のもとで静養すべく退院した。

私は大学病院の医師の診察を定期的に受けるようになり、州の職業訓練・社会復帰局へ通い始めた。あらためてそこで被害妄想分裂病との診断を受けた私のために、新しい担当医は州立病院から私のカルテを送らせ、障害者手当の申請を行ってくれた。彼は、しばらくの間働くのはやめた方が良いと云った。そこまでの彼の判断は正しかったが、その後大きな過ちを、彼は犯した。彼はすべての薬物療法を中止し、自由連想による治療に切り替えたのだ。私は彼とのセッションで、思いつくままにあらゆることを議論した。彼は私が思考障害を起こしているといい、座って私の話をじっと聞くだけである。治療はそれだけだった。

並行して私は、州の職業訓練・社会復帰局のカウンセリングも受けることになった。そのカウンセラーと私の担当医は、おたがいにコンタクトを保ち、私を診察し、職業を探す用意を助けてくれた。私は職業紹介所で働くのは思いとどまるように彼らに言われた。何故なら、通常その種の職場ではストレスが多く、精神病患者には勤めきれないからとのことだった。法律関係の仕事も彼らは勧めなかった。そのかわり、グッドウィル・インダストリーズの簿記の勉強を私は始めた。彼らはこうして社会復帰するほうが、いきなり職業紹介所のカウンセラーなどになるよりもよほど現実的と考えたのだろう。

   実はこの簿記のクラスの通い始める前、カウンセラーの勧めで私はユナイテッド・グッド・ネイバーズのボランティアに登録した。しかしそこでの仕事は複雑で私の能力を越えており、どうして良いかわからなくなってしまった。私の医師に対する信頼は大きく揺らいだ。ユナイテッド・グッド・ネイバーズの仲間に連れられて、私はウッドランドパーク病院の精神病棟に入院した。数日後には復員軍人病院に移され、その精神医学病棟に入院した。

復員軍人病院での1974年の治療は不完全なものだった。というのも私の症状は精神的混乱、不安症、、自信喪失等であって、被害妄想の症状は出ていなかったからである。医師は私に精神安定剤を処方し、私の薬への適応状況を観察した。精神病棟での療養中もカウンセラーは私を訪れ、退院後も州の職業訓練・社会復帰局に所属してどのように社会復帰するかの計画を立ててくれた。

私はカウンセラーの進めで、サンバンサン・ドゥポール・リハビリセンターのワークショップへ通いはじめた。しばらく経っても仕事はみつからず、1977年、私はそこで働くことにした。いろいろな組立仕事をして、給料は出来高払いでもらった。しばらくして、そんな仕事にも耐えられなくなり、そのプログラムから抜けることを考えていた矢先、サンバンサンのリサイクル・ショップをやってみないかと誘われ_軒た。私はこの話にのって、何軒かあるショップの一番大きな店で働きはじめた。

勤めたその日から私は優秀な店員との評価を受け、程なくして常傭の店員として正式雇用となった。私はこの仕事を続け、最終的には繁華街にある出店の事務員として、その後の2年間を勤務した。

サンバンサン・ドゥポール・リハビリセンターでの訓練と雇用経験で、私は既に社会保障制度法に定める試用期間を満たしてしまい、もやは障害者とはされず、障害者手当ても、州の職業訓練・社会復帰局からの援助も受けられなくなってしまった。

新たな自信と自立心をもって私は改めて求職活動に励んだ。当初私は、いくつかの弁護士事務所の事務職・アシスタント職に応募してみたが、経験が無い為に無理と分かった。いろいろな会社に履歴書をおくり、新聞の求人広告にも応募した。法律学校や実家の家業を手伝った際に、債権取りたての経験・知識が若干あったので、ある取り立て専門業者の求人に応募したところ、1979年に採用された。

私はそこで、小口債権取り立てを担当し、電話で債務者に対して早く支払うよう督促する仕事に明け暮れた。じきに私はこの仕事に嫌気が差しはじめた。毎日が同じことの繰り返しの上に、いちいち口出しする同僚に我慢ができなかったのだ。1980年のある冬の日、仕事にやる気を失い、人生に行き詰まって私は錯乱し、法律学校時代のルームメイトに電話で助けを求めた。彼は自分のオフィスに私を呼び、私がそこに着くとすでに退役軍人病院や、街中の精神科医に診察の可能性をあたってくれていた。結果としてある個人の開業医が私を診察し、彼は私の症状が重いのでプロヴィンス病院の精神病棟に至急入院するように命じた。同じ法律事務所の仲間の弁護士が、私を雪と氷の中、病院まで車でつれて行ってくれた。取り立て専門会社の健康保険ではこの入院費用を払うことができないことが分かり、2日後に私はワシントン州バンクーバーの退役軍人病院の精神病棟に再入院の手続きをとった。弁護士の友人がタクシーを手配してくれ、私は着くなり入院し、何人かの精神科医が私の治療を担当した。

そして、再度ポートランドの退役軍人病院に送られ入院することになった。私は、精神錯乱と欲求不満、自尊心の低下に悩まされたが、被害妄想の症状はなかった。医師は薬の処方を精神分裂病のためのトランキライザである、ロキシタン(Loxitane)に換え、数日間経過を観察した。その結果、私は仕事にもどってもよいと言われて退院した。

私は再びポートランドの取り立て専門会社に戻ったが、精神は錯乱し、欲求不満を抱えていた。数日間なんとか耐えて勤務したが、とうとうあきらめて私は少々のチーズ、スープとミルク2週間分をかかえてアパートにとじこもった。その間、かなり被害妄想の傾向を強め、飢えのため餓死するのではと考えた。丁度そのとき、ワシントン州東部から私の弟がポートランドを訪れ、私が心身ともに病んでいるのをみて、母や従姉妹と相談の結果、もう一度私をポートランドの退役軍人病院の精神病棟へ入院させた。

このときの症状はそれまでとは異なり、被害妄想だった。周囲の人達が私を火葬にしてしまう、と私は考えていた。ポートランド市が何か私に不満があると考えたのである。担当医はためしにリチウムという薬を処方した。この薬は恐怖感を拭い去ってくれ、考えもハッキリとしてきたが、 副作用である手足の震えや、筋肉の痙攣には悩まされた。

この新しい薬物治療で容態も落ち着いた頃、医師は病院のソシアル・ワーカーに私の治療を委ねた。彼女は私の病歴を考え、一人暮しのアパートを出てグループホームに移るよう勧めた。病院のスタッフの助力を得て、適当なグループホームを見つけ、退院とともにそこに移り住んだ。再び私はポートランド市退役軍人精神衛生クリニックの外来患者となった。アパート暮らしの頃の食事とか家事からのストレスから開放され、私はこの地域でなにか新しい職を探す為に全力を傾注した。

たまたまある日病院で、私は盲目の精神科医の診察を受けた。彼はパートタイムでこの退役軍人病院に勤務していが、彼が私を診察する態度は洞察力に富むものだった。私は彼に、自分の担当医になって欲しいと要望した。彼はこれを快諾してくれた。このことは、私が1961年にポートランド市へ引っ越してきてからの最良の判断になった。この医師は、精神分裂病治療のエキスパートであり、精神分裂病とは一体どんな病気なのかを、私に説明してくれた最初の医師である。彼によれば、それは、自分を周囲から隔絶させ、引きこもらせて、被害妄想感を抱かせる病気であり、基本的に思考と行動とを混乱させるいくつかの精神障害の集合で、症状としては、感情の急激な発露と、寂寥感や抑鬱感を伴うものと定義される。性格の変化、ま_軒た周囲の人間が何かを企んでいると考えたり、自分の考えを盗もうとしているなどの感情が特長として挙げられる。また、精神分裂病患者はときに、非常に宗教的になり、自分を世間や友人家族から隔絶し、働いたり自活することが不可能となる場合、あるいは麻薬やアルコールに依存するケースもある。

彼はこうして精神分裂病についての説明を終え、今度は私の症状について以下のように説明してくれた。 「貴方の以前の担当医師が、弛緩法(relaxation skill)を用い、筋肉弛緩のための薬を処方したのは、精神分裂病に対する不安と憂慮を押さえ込む目的に有効であった。しかしながら、自由連想(free association)を治療にもちこんだことは貴方にとって過酷すぎたし、精神衛生上不利益なことだ。貴方の脳内では化学的平衡失調(chemical imbalance)が進行していて、そのために薬物療法が必要であり、カウンセリングを行うことで、まだ正常な脳細胞を最大限活用するのだ。」

彼は私にナーベンの投与を続け、生活上の優先順序付けの必要性について、こう教えてくれた。まず、社会生活に慣れること、第二に、意思の伝達を心がけること、そして第三に、周囲の人を信用すること。この目的を達成するためには、仕事に就き、宗教・文化・スポーツに対する興味をもち、親族、友人、知人、精神科医等からの支持を得る必要があること、そして音楽や、映画、ショー、軽い読書などの趣味をもつことなどが必要で、もしこの目的が達成されれば、もとの健康な精神状態をとりもどせるであろう、と。

私は退役軍人管理局の緊急訓練法に応募したが、今は経験としっかりとした照会先を得る為にボランティアをしばらく続けるべきとの回答を得た。その後、ボランティア局やその他のあてを通して、マルトノマ郡弁護士会のボランティアの仕事を見つけ、1984年の秋から85年の7月までそこで働いた。

弁護士会のボランティアの仕事を続けながら、私は勧められるままにポートランド・コミュニティ・カレッジの法律補助士コースを受講し、「法律調査手法」と「法律事務所運営」の2科目を履修した。私は一生懸命勉強し、そしてよく働いた。その甲斐あって85年の6月、法律支援コースを私は優秀な成績で終了した。その後まもなく、ボランティア先で、私を引きうけてくれた担当役員が退職したのをきっかけに、ボランティアを辞めることにした。

ボランティアの仕事を退いてからコミュニティ・カレッジで更に法律補助士関係の勉強を続けることにしていた私は、秋の新学期前にサンフランシスコにいる従姉妹に会いに行く計画をたてていた。丁度このとき、退役軍人精神衛生クリニックで、私を過去5年間担当していた医師が自営のため退職した。新しい担当医はクリニックの常勤医師で、私のカルテを見、そろそろナーベンの投薬量を減らしてもよいだろうと判断した。 

勉学意欲を燃やし、旅行を楽しみにしていたものの、私の被害妄想は続いていた。それは労働祭の祝日(Labor Day-訳注:9月の第一月曜日)にかかる週末の土曜の午後、大きなショッピングセンターでのことだった。周囲の人達が自分のことを話していると考えはじめた私は、急に不安になり、アパートへかけ戻った。私は、ボランティアをやめた時の経緯に罪の意識を感じていた。眠ることができなくなり、本をよんだりテレビを見て夜を過ごした。退役軍人病院へ電話をかけ、医師に相談したが、メトロ・クライシス・センターへ連絡するように言われた。メトロ・クライシス・センターには宿直しか居らず、ソロ・センターへ連絡するようにいわれた。電話をかけたが、時間外で誰もでなかった。私は再び担当医師のところへ電話した。彼は、月曜の夜に帰ってくるはずの私の従姉妹をじっとそのまま待つのが最良、と言った。翌日の日曜日も、落ち着かない夜を私はすごした。月曜日の朝、目覚めるなり一杯の水を飲んだ私は、耐えがたい腹痛に襲われた。共和党のボブ・パックウッドがアパートに忍び込んで毒を盛ったに違いないと思い、毒物センターに電話すると、沢山水を飲んで腹痛が収まるのを待つように、と言われた。いつまでたっても腹痛が治らないので、今度は病院に電話をした。医師は腹痛の原因はストレスであろうから、その日一日ゆっくりするようにと私に言った。私はいわれたとおりに、ノーマン・ヴィンセント・ピールの本を読んでその日をすごした。この効果あって私はすっかりリラックスして、もう月曜の夜に従姉妹に助けを求める必要もなくなったと感じた。「被害妄想」で残された課題は、私がボランティアをやめた時の罪悪感のみとなった。医師は私に、ボランティア・オフィスへ出向き、担当のオフィスマネージャーに謝罪すればよい、と助言してくれた。

火曜日の朝までには不安感もうすれ、_軒、私は精神衛生クリニックへ行き、当直医に報告をした。当直医は週末の経緯を聞くと、やはりボランティア・オフィスにゆき、謝ったほうがよいだろう、と私に勧めた。私はその日の午後、ボランティア・オフィスに電話をかけ、私がやめた理由は周囲の人間に快く受け入れてもらえなかったからですと言って、謝った。そして、オフィスの責任者が交替することへの不安もあったことを付け加えた。これで懸案がかたづき、私はこの3日間に起こった出来事を反省してみようと考えた。私にはこの事件が何らかの影響を心に残したことは分かっていたが、このときにはまだ事の重大さが呑み込めてはいなかった。それが分かったのは、被害妄想の症状が残っているにもかかわらず、医師に進められて行ったサンフランシスコ旅行の後であった。

サンフランシスコでの10日間は楽しく、とても良い気晴らしになった。旅行から帰って、私はコミュニティ・カレッジの法律補助士のクラスに通い始めた。 そして私は、労働祭の発作のせいで、自分の記憶に障害があることに気が付いたのである。授業に集中できないばかりか、授業内容を記憶することがうまくゆかないのだ。仕方ないので授業に出るのは中断せざるを得なかった。医師は脳のCTスキャンで、発作の影響を検査すると言った。その結果は正常で、脳卒中などの形跡は認められなかった。しかし、精神状態と記憶の喪失程度について、私は、更にいくつかの検査を受けるよう指示された。

最初に受けたのはMMPI(Minnesota Multiphasic Personality Inventory-訳注:米国で広く用いられている性格テスト)で、私は幾分抑鬱と不安を持ち、心配性で、悲観的なものの見方をする傾向が強いとの結果がでた。次に受けた投影法テスト(ロールシャッハ等)で、私には被害妄想に加えて心配性・不安性の傾向があることがはっきりとした。更にその他のテストで分かったことは、私の記憶力は完全に失われてはいないが、平均以下であり改善の余地はないことであった。それは全人口の下から10%に入るほどの結果だった。その他の二つのテストでも概念的かまえ(conceptual set)の切換えと、課題の処理には好成績をしめしたものの、ほかは平均以下だった。しかし最後のIQテストでは私の成績は平均を上回っていた。分析医は困難ではあろうけれど、民間企業でストレスが少なくマイペースで働ける、事務の仕事につくことを目標に訓練を続けること、ベストなのはパートタイム、季節契約、ボランティアなどであろう、と診断した。

私の担当医はこれらの結果を考慮し、ナバーヌの投薬量を元に戻した。それに加えて、デイケアプログラムにも再度加入するよう進めてくれた。ここでは、退役軍人恩給、自己主張トレーニング、精神病の自己管理、問題解決、余暇の教育、フィットネス、生産的生活、意思の伝達、ストレス管理、友人の作り方、料理、音楽セラピー等のコースを履修した。

1987年の1月には、私はポートランド市のアーバン・リーグで、採用スペシャリストとしてのボランティア活動を始めた。現在は、デイケアとアーバン・リーグで毎日の時間を配分している。退役軍人病院のデイケアプログラムのコース履修は今のところ、問題解決、意思の伝達、音楽セラピー、弁当昼食である。そして毎週カウンセラーの力を借りて、自分の目標設定やその日の気分、問題などを話し合っている。アーバン・リーグではファイリング、応募者や勤務者の呼び出し、業務指示書の作成、事務所機器の管理などを行っている。

振り返ると私は、いつも精神分裂病治療の医療最先端にいたと感じている。治療や人生で多くの困難や行き止まりを経験したけれども、私は決してあきらめなかった。なんとか立ちあがることができ、ふらふらと再び人生に戻り、社会の中に自分の位置と目的を見出し続けて来たのだ。
筆者について

ロス・B・フォートナーはオレゴン州退役軍人局メディカル・センターの外来患者。彼はマーチ・オブ・ダイムの電話求人業務を成功裡に終了し、ポートランド市民間企業評議会で訓練を受けている。


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