成人してからのほとんどの時間を、私は医学的に言う精神病患者の状態で生きてきました。有能な医師はこの病を精神分裂病と診断しました。長らくの間、心理学はいろいろな局面を経て、精神分裂病の原因についても多くの説がたてられてきましたが、最近のものでは、重度の精神病はすべて脳障害に起因するとされています。また最近の精神医学会では、あまり精神病の意味に関する研究は行われなくなっているようです。現在では脳の生化学的機能障害例にもとづいて医療が行われており、薬物療法も重要度を増しています。投薬により劇的な改善をみせる患者がいる一方で、効果がないまま症状を悪化させる患者も少なくありません。私の場合、薬物療法によって幾つかの症状を治めることはできましたが、部分的な問題解決にすぎなかったといえます。
私は精神分裂病患者で、脳の機能障害をかかえています。しかし、この生化学的な障害とともに他の問題の存在も明らかになってきました。そしてこの問題の解決方法を探る過程は、私の人生にとっては癒しのプロセスでした。それは発見した解決方法が癒しそのものであったのみならず、症状の意味を解釈する過程が自己の回復に役立ったのです。意味を求める私の行動によって、それまで他人から与えられていた解釈が誤りであったことが証明されたのでした。
この小論文では、私の最初の精神病発作に至るまでの状況を説明しましょう。その経験と症状についてお話したあとで、私の意味を把握する努力が状況の改善に如何に役だったかについても語りたいと思います。
幼いころ私は、感受性が過敏だと言われました。小学生の頃にはよく怒り、泣いたりもしましが、中学に進むころには、親しみやすく、社交的になりました。このころ、私はチア・リーダをやったり、学生会で会長にも選ばれました。高校へ入ってからは、テニスの全校代表チームに入り、二年生になってチア・リーダ部をやめました。スポットライトを浴びるのが億劫になったのです。私は以前よりずっと内向的になり、いつも本をたくさん読んだり詩や散文を書くようになりました。友人はほとんどいなくて、テニス・チームでの活動を除いて、私は社交活動から遠ざかりました。発作的に泣き出すことが多くなり、剃刀で手首を切ったり、アスピリンを限度以上に服用するようになりました。両親の計らいで私は精神科の看護婦のところへ行って相談しました。彼女やコンサルティングを行った精神科医は、当時は精神分裂病を疑うことはしませんでした。高校を卒業した年の夏、私はある人からカリフォルニアでプロのテニス・プレイヤーについて練習しないか、と勧められました。この話は断わりましたが、そのかわりにテニスを教えることにしました。これはひと夏だけで終り、すぐにその後、私はある宗教団体に入会しました。
その団体の居住環境は厳しいものでした。ほとんど寝かせてもらえず、何日も長時間の修行を続けなければなりませんでした。断食も何度か試しました。ある時などは7日間も断食したことがあります。私は毎日聖書や宗教書を読み、よくお祈りをしました。あるたった一行の宗教的なフレーズを心のなかで何度も何度もまるでヒンズー教のマントラのように繰り返し、瞑想したこともありました。友達はひとりもいず、家族との接触もほとんどないままに過ごしました。この頃の私は貧窮していて、所有物と呼べるものはありませんでしたし、食事も栄養価の疑わしいものを少量あてがわれただけでした。
このグループと共に1年ほど暮しているうちに、幻覚をみるようになりました。当初は幽霊が出たのかと思いました。最初に天使が、そして次には悪魔が呼ぶ声がしたのです。でも彼らの到来は私には当然のことと思えました。私に恐れはなく、むしろ畏怖の念を抱きました。子供の天使のように聞こえた声は、とても心安らぐもので、甘く優しく心地よく私の心に響きました。けれども悪魔の声は背筋の凍る、恐ろしいものでした。夜、時々恐ろしくなると、私は電気をつけたまま寝ました。悪魔は私を嘲笑い、脅迫しました。これらの幻聴は、私に何かを命令することがありましたが、私は決してそれに従うことはしませ??んでした。時には機械から声が聞こえてくることもあり、掃除機の音が私には猥褻な言葉に聞こえたり、洗濯機、エアコン、車、オートバイ等が私を愚弄することもありました。ガスストーブの火すら私に話し掛けてきました。大きな透明人間が追いかけて来る足音を聞いたこともあります。本を読むと活字が声になり、歩くと自分の足音が単語になりました。風が吹けば私の耳にはそれがあるメッセージに聞こえたのです。
こんなふうに私の世界が壊れて行くある夏の夕方、こおろぎが4部の和音で鳴きはじめました。その声は美しく、素晴らしいものでした。またあるときは、散歩途中にみつけた小さな木に、かわいいミソサザイが沢山とまって鳴いていました。そのすべてが私に向かって、かわいい声で、"大好きよ、マルシア、大好き。"とささやくのです。庭を歩けば蜂の羽音がささやきに聞こえました。ある嵐の日には、そのどしゃ降りの雨音が"イエス・キリストを信じなさい。そうすればあなたは救われる。"と聞こえたこともありました。
この雨の日の宗教的メッセージは私の病からの回復の重要な要素になりました。劇的な症状の改善があったのはこのメッセージのあとでした。通常、精神医学会では、精神病的現象については、価値を認めたがらないものですが、私は経験上、その中にもしばしば意味が見出せることを知っています。精神障害の医学的な事例としての価値を私は過小評価するものではありません。私が言いたいのは、精神分裂病の生化学的な混乱のなかにも、何か認識可能な意味あるものが存在するということなのです。
これらの精神病的現象は1年以上もの間、続きました。この現象が起きているうちに現実とのコンタクトが無くなる時間は長くて2~3分でしたが、とうとう私は精神科医の助けが必要と判断しました。当初は外来で治療を受けていましたが、2~3週間後には入院となりました。そして幻聴は消えたのです。この1976年の最初の入院から、私の幻聴は、あっても時々の、やわらかな雑音になり、はっきりとした言葉にはならなくなりました。
私は精神分裂病の患者ですが、この病名は幅広い症状と多くの病気をカバーするものです。たとえば、私には妄想障害がありません。私の発作は22歳に始まって、診察を求めるまでの18ヶ月つづきました。それ以降はっきりとした声は聞こえてきませんし、やわらかな雑音もめったには聞こえず、私を悩ませたり、気を散らすこともありません。2~3度繰り返した入院はうつ病のせいです。私は抗うつ剤を長いこと間欠的に服用しました。陰性症状に悩まされ、仕事への意欲は極度に失われました。何事にも興味がなくなり、自分が今、うつの状態なのかそれとも陰性症状のひとつである無感動の状態なのかがわからなくなりました。そのどちらであったとしても、この興味と意欲の喪失は私にとっては大きな問題でした。
精神分裂病の症状のひとつに混乱状態があります。私は元来几帳面な性格でしたが、1994年までにはそれが非常に混乱したものになってきました。私は勤め先を20回変わり、ボランティアも6回経験しました。最も長い就職期間は18ヶ月で、それもパートタイマーでした。ボランティアで最も長く続いたのは家庭内暴力センターでの仕事で、これは4年続きました。大学での勉強は1年間だけでしたが、特別コースを受けてはどうかといわれました。この間、多くの人と恋愛関係を持ち、そのうちのいくつかは悲惨な結果に終わりました。
精神分裂病の患者の多くは、思考障害に悩まされるものですが、私にはそれはありません。その逆で私はよく他人からは非常に理性的で、病気にはみえない、と言われます。
ジョン・ウイア・ペリー(1974)は精神病に関する彼の著書のなかで、人間を全体論的にとらえています。彼によれば、肉体と精神の変化は「分かちがたく複雑にからみあっている」ために、精神病の最も良い治療法は、精神的な不安とその生化学的な反応の両方を考慮したものでなくてはならない、というのです。科学と宗教とは長い間、一緒にはなり得ないものと考えられてきたために、精神病は生理的な障害の結果とだけ学者達は考えがちです。ですから仮に心理学あるいは精神医学に携わる方が神あるいは霊的な存在を信じない場合、患者に起こった精神病的経験を解釈するうえで、神がどのような役割を果たし得たかを見過ごす可能性があります。
幻覚からどのような意味を得ることができるでしょうか?そもそもそこに意味を見出すことが可能でしょうか? 無神論者の精神科医はそのような可能性を信用しないでしょう。セラピストが自分の患者の考え、感情、そして行動を解釈する上で、精神の果たす重要な役割を見過ごすかもしれません。もしかすると、神は、精神病的な現象を通して患者に働きかけ、精神分裂病患者が自己の??再建を果たすことを可能とするかもしれないのです。何故ならば私の場合それは本当に私の人生を変えたからです。
科学的な薬物療法と信仰生活の両方がうまく噛み合って私に回復をもたらしてくれました。リスペリドンが私の陰性症状を最初に軽減してくれた薬でした。しかし間欠的にきこえてくる、やわらかな騒音に対しては効く薬はまだ経験していません。リスペリドンは私の精神安定にも寄与してくれました。しかしその適正な投与量を把握するのは難しく、医師は過剰投与を避けなければなりません。この薬物療法を受ける傍ら、私は宗教に救いを求め、教会の行事や聖書の研究会に参加しました。リスペリドンと宗教活動の双方が、私に明晰な思考を取り戻してくれました。
さらにもうひとつ改善されたことは、過去によくあった衝動的行動が大きく軽減されたことです。その行動の原因の主なものは私の挑戦的な態度に起因するものでした。過去に権力的な人物に虐待を受け、私は権力を持つ人間に対して幻滅を感じていました。それゆえに私は権力者や、ルールに従うことをしなくなったのです。しかしながら、信仰を得たことで私の中の衝動性は影をひそめ、秩序立てて物事を考え、権威に対して敬意をはらうようになりました。精神分裂病的行動の混乱はもう殆どなく、私は好んで規則に従い、かっての「何をやっても良い」という考え方は自己破壊的である、と考えるようになりました。
でもまだ時々、あともどりすることが無いわけではありません。しかし全般的には良い方向に進んでいます。ものごとに積極的になり、陰性症状やうつ状態もそう多くはなくなりました。薬物療法にのみ頼っていたころは、私の状態はこれほど良くはありませんでした。薬物の効力には限界があり、何かが欠けていたのです。
例えば今の私には、うつ状態の多くが虚無的な精神的危機であったことが理解できます。辞書によれば虚無主義とは道徳観や宗教などの慣習的な信念の全般的な拒絶という意味ですが、言いかえればそれは存在には目的も意味も無い、という考えです。このような危機は西欧的な物質主義の風土では多くの人に影響を与えています。私は知識や真実の存在を否定していました。これはいまだに私の生活に日常的にしのびよってくる考えです。意味を見いだすことができない人生は、舵のないボートや、船長のいない船にのっているようなものです。つまるところ、もし人生に目的がないのであれば、何故朝がきて一日を始める必要があるのでしょうか。そして、知識にはその根底に絶対的な裏付けがないとすれば、どうして信ずることができるでしょうか。それはなんとも憂うつなことです。
もう一つ、私の回復の重要な要素は私の受けた医療と助言の方法です。私は幸運にも過去20年の間、全体観的医療を行う精神科医の治療を受けています。私はその医師の心優しく、患者を生物学的に扱わない態度に感謝しています。私の健康回復は、精神分裂病という困難な問題の答を模索していた自分に与えられた助力により得られたものです。
セラピストが無神論者であれ、不可知論者であれ、有神論者であれ、患者の信仰を知りそれを尊重することは治療の助けになります。しばしば病人は本能的に回復の方向へ自ら舵取りをするものです。医師が患者の信仰を知ることにより、精神療法と薬物療法を調節することによる手助けの方向性を探ることができるかもしれません。
もしあなたが、病気に意味などないという考えをお持ちでしたら、この私の物語はあなたのその考えに疑問を投げかけるものになると思います。私の症状の劇的な回復は、正しい薬物療法が見つかったことのみならず、幻覚の中からヒントを得た信仰の力によるものでもあります。私の病気に対する考えと人生観は、科学と宗教の両方を内含したものです。私はその双方が矛盾無く相容れるものと考えます。
参考文献
J.W.ペリィ、「狂気の果てに-Far Side of Maddness」テキサス州ダラス、スプリング出版、1974
Dallas Texas, Spring Publications, 1974
筆者について
マルシア・A・マーフィーは現在アイオワ州アイオワ・シティのアウトバック・クラブハウス(リハビリセンター)でボランティア活動中。アウトバック・クラブの会報の編集者でもある。