私は成人してからの15年間のほとんどを、精神病とともに生きてきた。長い間精神病とともに生きながら、自分の病気により良く対処するための方法を私は見つけ出そうと試みてきた。
最初に、心の中の障害の隠れた兆候を認めることがまず必要である。それは困難な作業かもしれない。というのも、しばしば周囲は自分と同じように考えていると自分では思い込んでいるからだ。私の心が歪んだ考えや思考、感情でざわついていると気付いたとき、私は自分以外の状況に目を向けるよう心がけている。これは簡単に聞こえるかもしれないが、現実に私は、より明白なストレスに満ちた何かが実際に起こっているある領域に感情を置き換えている自分を発見した。これこそが真の原因なのだ。例えばある時、就職のことで頭が一杯になり、うまく自分が機能しなくなるほどに私は思いつめていた。ところが実際には、ある親しい友人が亡くなったことで私は彼女の死を悼む自分が許せなかったのだ。苦痛や葛藤の本当の居場所を的確に把握出来るとき、私は一歩踏み出すことができたと言える。
私はストレスが病気を惹き起こす大きな要因であることに気づいた。避けることが不可能なストレスに満ちた出来事は存在する。しかしもし私にコントロールできる場所があれば、それを取り除くことが可能になるのだ。
病気を受けいれて行く過程で、“正常な”人々が出来ることも自分には出来ないことがあるという事実に対処して行かねばならない。病気が活発化した局面にあるとき、仕事の上で自分を維持することは非常に困難であることが私には分かった。かつての私―大変積極的で人生に深く関わっていた自分という存在―の喪失を私は嘆き悲しんだ。病気によって私には限界が設けられてしまった。精神を病む者はすべて、この損失に悲しみを感じることと思う。病気を受け容れるということは自分が回復しつつあることを意味するものだが、完治することはない。寛解期にとどまることは可能であり、かなり多くのことができるけれど、この病気は生涯を通じて再発する可能性をもっているのだ。
私は同じ精神病患者の仲間を、内なる戦争の生存者達と考えている。支援グループの大きな助けで、心が通じて理解し合える友達もつくることができた。彼らが、未だに精神病患者を理解していないこの世の中に生きることの孤独と隔絶を緩和してくれる。
私の最初の日記には、圧倒的なエピソードと闘う試みが書き込まれている。1986年の終わり頃、気分の振幅は鬱から躁へと移った。それはあたかも“暗黒の狂気の底、地獄のブラックホールから地上へやってきてしばらくとどまり、それから風船のように浮かびあがって、太陽にそして雲に届くまで飛んで行く”ような気分だった。
私はこみ上げてくる荒々しい波のような感情に支配され、浮かび続け必死に流されまいと闘う小舟のような自分を感じていた。
1986年11月。 私は脆い。人生は予知できない。そして私は紙のように風に吹き飛ばされ得る存在であることを悟った。
この間に恋に落ちたことが病気を更に悪化させた。それは私の感情をより一層激しくさせた。私は身を投げて死んでしまおうかとさえ考えた。私のエネルギーはすべて彼に費やされ、彼に拘束された。
破局に向いつつあることを知り、私はその関係を終わらせようと決心した。嘗てその恋は、勢いよく吹き上げる噴水のように力強く素敵なものだった。それが今、蛇口を滴る雫となって終わりに近づいている。
1986年12月。 私の心は男達に左程関心がない。私の情熱は膨らんだ風船のように命で満たされている。失望をより少なくしながら、私は生きてゆきたいと思う。自分をなすがままにして、人生の波にやさしく流されることに私はあこがれている。
一年が終わり、私は徐々に回復してきた。太陽の光に私の目は瞬き、暗闇から開放された。
1987年1月。 重すぎる荷物を積んだロケットのように、私は自分を地上に繋ぎとめておくための支援組織をもっている。ロケットの打ち上げ準備が完了し、地上を離れ空に飛びあがるとき、ロケットは余分な荷物を捨て自立できるひとつの単位となる。ゴールは他の星に到達することだ。私にもかなえたい夢や希望があるのだ。
1988年の2月、病気は私を再び襲った。私は自分が敗れつつあるという感情を拭い去ることが出来なくなり、再び白いたんぽぽのように一陣の風に舞う自分の断片を感じていた。
1988年2月。 赤ん坊の頃、ロッキングチェアーに座る母の膝の上で揺れていたことを思い出す。母は私に、優しく静かに歌ってくれた。それは私を慰め、育み、恐怖を和らげてくれた。今私は、恐怖を軽くする為に優しく自分自身を揺り動かしている。
3ヶ月の入院の後に退院した。私は衰弱していながらも、回復を心に堅く決めていた。ハーフウェイハウス(リハビリ宿泊施設)で出会った男性と友達になり、私達は次第に親しさを増していった。
1988年9月。 彼は私に言った。神は空でありいつもそこにいる、と。雲は感情であり、常に変化し時には嵐のようになる。しかしいつも留まることなく過ぎ去ってゆく。
1988年10月。 強力な渦巻きが、計り知れない深遠の中へと渦巻いている。嵐のように泡立つ強烈な波が、激しい爆発のように砕けている。これが私の強い感情を表わしている。この間私は自分自身を全力で捕まえている。私は生き延びなければならないのだ。
1991年2月には、私は書き、私は包み込むような大地の暖かさの中に沈み込み、そして安らかな自分を感じていた。私の心はこの頃、喜びに満ち溢れていた。
1991年2月。 私は海に漂っているように感じていた。波と闘うために全エネルギーを費やす代わりに、上陸できるという確信が私には必要なのだ。
1994年10月。 私はまるで太陽の輝かしい白熱光を見ることが出来る宿命をもって生まれてきたようだ。けれどもその熱は私を焦がす。私にはとてもはっきりと光がみえる。しかし深い痛みも感じる。
1995年4月。 苦労や困難は小さな振動から大きな地震にまで及んでいた。私はそのすべてに振りまわされてきた。私の感情はまるで混乱が終わってそこら中にぶちまけられた衣類のようだ。それぞれの衣服、それぞれの感情をもとの場所にきちんと戻すのには時間が必要だ。
1988年の最後の入院からは、私は鍵の掛かる精神病棟の患者であったことはなかった。10年前ハーフウェイハウスで知り合った男性と結婚して2年半になる。この結婚で私達は、互いにとても良く支え合っている。過去2年間にコネティカット州内で一度引越しをしたが、私にはその変化は困難なものだった。私は2年間に2度ほど“調整(tune-up)”のためにディ・ホスピタルに通院した。親しかった友人の死と引越しのストレスが原因で抑うつ状態になったのだ。
私は今自分を信頼する術を学んでいる。薬物治療をするだけではなく、生活に自信がもてるライフ・スタイルを創り出すことができれば、より上手に人生に対処することができるようになる。私は自分のことは自分でするように心がけている。毎週個人セラピィのほか、グループ・セラピィにも参加している。私はまたトゥエルヴ・ステップ・グループ(Twelve-Step group)にも参加している。支援組織は、安心感を維持するためにとても重要な存在で、おかげで困難な状況でも私を理解してくれる人達と友達になれた。
私は高齢者の世話に興味があるので、いま近くの大学で老人学を受講している。成人のデイケアーセンターでボランティアとして働いているほか、在宅老人への食事の配達もしている。
時折私は、精神病の為にどれほど人生にだまされたと感じたかについて考えることがある。成人してからの15年間のうち、私は10年間を病気と共に活動的に生きてきた。それは自分で制御することができない病気だったが、肯定的にそれと向かい合ってきた。調子の良い時は生産的で充実し、満足感が得られた。私はそれを本来の自分に近づくためのらせん状に深まる段階と見ていた。
けれども私は、発病した期間が人生の無駄であったとは思わない。それは私の性格と生存能力を試す試練だった。自らすすんで病気になったわけではないが、それは私が登らざるを得ない山であった。登山中には時折より高い高原へ到達するために、来た道を引きかえさねばならないことがあるものだ。長い目でみれば挫折もまた同様に、より高い次元での自己実現へ到達するための準備なのではないだろうか。
筆者について
ビィクトリア E. モルタはバーモント大学で英語学の学位を取得し卒業した。彼女は高齢者の介護に興味があり、老人介護施設、成人のデイ・ケアー・センター及び個人の家庭などでボランティア活動を行っている。また現在彼女は地元の大学で老人学を履修している。