定期刊行物新刊書籍書籍一覧電子書籍オンデマンドメールマガジン
トップページ患者さんの手記 > 妹の目からみた分裂病 見えない荷物の重み

妹の目からみた分裂病 ―見えない荷物の重み―

著者:アミ・S・ブロドフ  訳者:林 建郎 [Schizophrenia Bulletin  Vol.14,No.1,1988]
今から10年ほど前、私が大学の2年生、兄のアンディは別の大学の3年生の頃、週末にかけて私は彼を訪ねました。金曜日、彼の友人が寮で開いてくれたパーティーに私達はお呼ばれになった、帰りがけ、兄は出入口と扉を間違えて納戸に入ってしまいました。「カミング・アウト(訳注:同性愛者であること等を公にする-coming out of the closet)する人もいるけれど、僕はゴーイング・バックだね」と真顔で言いました。この冗談には笑いましたが、今からおもえばそこには隠されたメッセージがあったように思えます。というのも兄が精神異常の兆しとなる出来事を経験したのはその週末でしたし、それから暫くして、精神分裂病と診断されたからです。

その休みに兄に会った時、最初のうちは以前と目立って変わったところはありませんでした。ただほんの少し不安そうでいつもよりだらしがないという感じはしました。赤褐色で穏やかな緑の光を放ち、真中にほんすこし黄色味を帯びている兄の大きなひとみは、着るものによって微妙に色を変えました。少し痩せすぎて、だらしなくなっていましたが、彼はまだまだハンサムでした。私の訪問を楽しみにしていたものの、会話は途切れがちで、彼はよく席を外しました。

土曜日の晩は、兄が選んだ映画を観に行ったのですが、兄は落ち着きがなく、10分から15分おきくらいに席をたち、「散歩してくる」というのです。女子トイレへ行く途中、私は彼がロビーの暗い片隅で何かに憑かれた様に行ったり来たりしているのを目撃しました。食事の最中、兄は口数すくなく、料理には手をつけないでグラスに入れた氷のかけらをほおばって、ぼんやり宙を見つめていました。

彼の振る舞いはいかにも奇妙で、私は心配になりました。けれども、私が学校に帰る前夜の出来事に対する心の準備はできてはいませんでした。兄は動物好きでしたが、昆虫―特に蜘蛛―には恐怖心を抱き、忌み嫌っていたのですが、私が買い物を済ませて寮に戻ってきたとき、兄は両手に手袋をはめ、あたかもくいついて離れようとしない昆虫の大群を払いのけるかのように、着ているものをこすっていたのです。蜘蛛を一匹みつけただけで、その集団が彼の周りに蜘蛛の巣を静かにはりめぐらしている、と思いこんだようです。黒アリ、甲虫、ブヨ、ひらひら舞う蛾、などがその蜘蛛の巣に引っかかっていて、それは自分までもとじこめてしまうと兄には映ったのでした。

兄は入院しました。これが私たち家族が彼の究極の救済を求めて始めた、長期間にわたって、数多くの病院を巡ることになる自発的、多発的入院治療の第一歩でした。私の両親、弟、二人の叔父、父方母方の両祖父と何人かの従兄弟たちは精神科を含め広範な専門分野の医師でしたが、兄の病状を長期にかなりの程度改善させる治療法は見出すことはできませんでした。

兄は長いこと秘密の空想世界に住んでいました。けれども子供のころは、むしろ私のほうが、綺麗な景色とうさんくさい登場人物つきの自分だけの想像の世界にすみ、兄は、世界を虫眼鏡でみるような、現実にたいする超繊細な感受性をもっていました。

私は独りで家の近所の森を散歩したり、裏庭の向こう側の牧場を歩き回り、家の前の通りの角にある、石塀の裏の秘密めいた墓地や、庭を探検するのが大好きでした。そんな秘密の場所で、私は自分がその主人公兼作家の、長い物語をひとりでつむいでいました。ちょうどメアリー・ポピンズが歩道の脇に描かれている絵を現実の世界に変えてしまうように、私は自分の世界を物語に変えることができたのです。それは楽しい時間つぶしでもあり、現実からの逃避でもありました。自分の世界がわびしく暗い時、あるいは混乱して仕方のない時などには特に、魔法のように物語が湧いてくるのでした。

私とは対照的に、兄は自分の世界を変えず、心の濾過装置が溶けてしまって剥き出しになった神経で、人生を痛々しいまで鋭く受け止めていました。彼には精神的な第"?六感が備わっていて、将来起こること、特に痛ましい出来事に関しては、皆がそれに気がつくずっと以前に言い当てることができました。彼がたったの5歳の時、彼は私に、間違いなく両親は離婚すると予言しました。私はその時、そんな話はナンセンスだと思いました。ひとつには多分それが考えたくない恐ろしい可能性であるということ、もうひとつの理由は両親が喧嘩したのをみたことがなかったからです。起こりそうもないことに心を悩ませることを私は拒否したのです。その6年後に兄の予言が現実のものとなるまでは…。兄は他の人間や多分両親たちさえ気づかなかった、あるいは気づこうとしなかった二人の間に流れる不協和音と無関心さに誰よりも早く感づいていたのでしょう。

外的世界の捉え方や対処の仕方の違いはあっても、兄と私は仲のよい子供同士でした。彼と私のお互いの関係は両親と私達との関係よりもずっとコンスタントなものでした。私は兄のことを尊敬し、真似をし、後ろについて歩き、彼の関心を惹こうと努めました。彼は私の日々の友人であり、遊び仲間であり、保護者であると私は信じていました。

子供の頃、兄と私は秘密の言葉を共有し、彼はその言葉で私が寂しいときや怖い思いをしたときに短い詩を作って慰めてくれました。私を慰めるとき、彼は自分の顔に私の顔をやさしくこすり付け、私のほほを両手で軽くたたきながら、こんなおまじないを歌ってくれました。

  シスタ・ゴア(sista goah)あなたとその仲間が好き
  ミルクとキャンディをあげましょう。悪い奴らを退散させるために

ピュリッツアー賞を取れるような詩ではありませんが、よちよち歩きの子供にしては良くできていました。そのおまじないは、兄が私と私達の犬、2匹の猫、亀、サンショウウオ、そして熱帯魚などのペットを養育し、危険から守ってくれる儀式となったのです。

けれども最近になって、当時の家族写真を見ていて私はショックを受けました。いったい誰が誰を守っていたのだろうか、と。奇妙なことに、これらのスナップ写真は、私の世話人としての兄の想い出を偽って映し出しているのです。そのどの写真にも、兄は私の1歳半年上にもかかわらず、そして写真には私と兄の二人しか写っていないにもかかわらず、常に前にたっているのは私で、兄はそれより何歩か後ろに立っているのでした。私は丈夫そうで常に笑っているのに対し、兄はひ弱そうで、ハンサムな顔をしかめっつらにし、不愉快そうにしているのでした。そしてからだを曲げて頭を前に突出した奇妙な前傾姿勢でたち、ひょろ長い腕は体の後ろに回しあたかも見えないつっかえ棒を両手にもつような格好をしているのです。時には笑って写っている写真もあるのですが、その写真こそ、最もみるものを不安にさせるものでした。というのも、兄のその笑いは上下の前歯をむき出しにした、引きつったようなもので、重い緊張と痛みしか伝わってはこない、まるで凍りついた叫びのようにみえました。

お互いが成長するにつれて、兄と私の人生はそれぞれかなり異なった方向に進み始めました。そして二人の蜜月期間は終わりを迎えることになります。私の世界は外に向かって広がったのに対し、兄のそれは次第に小さく縮んでゆきました。私は学校が好きで、良い生徒であり、運動や課外活動でスケジュールいっぱいでしたが、兄はその知能指数が天才クラスであったにもかかわらず、学校での成績は芳しくなくて、落第寸前の科目がいくつかありました。感情の表現方法を持たず、社交的なはけ口もほとんどない兄は、しばしば仲間や教師からもスケープ・ゴートにされてしまう、おとなしい一匹狼でした。

兄が自分の身体を、まるで他人の持ち物であるかのごとくに、かまわなくなってゆくのを私は不安な想いでみていました。彼は、不釣合いで似合わない服を着、基本的で清潔な身だしなみも怠るようになりました。高校での数年間に彼の身体は恐ろしい変貌をみせました。数ヶ月であっという間に太ったかと思うと、こんどは同じようにあっという間にやせてやつれて衰弱しきった身体になるのでした。

兄にどんな悩みがあるのか知りませんでしたが、彼が確実に坂をころがり落ちているのは明白でした。事態がほとんど飲み込めていなかったとはいえ、このままでは自分も生き残ることが出来なくなるとの極度の不安から、私は兄との間に堅固な境界を設け、私達二人はまったく互いに似てはいないのだ、というための証拠づくりに入りました。

私の兄との関係を絶つ作戦はしばしば成功しました。同じ学校に長い間一緒に通っていたにもかかわらず、そしてあまり一般的ではない苗字を共有していたにもかかわらず、私達を兄妹と気づく人間は周"?囲にはほとんど居ませんでした。しかし教師や仲間が私と兄との関係に気づくと私はパニックに陥りました。どうしてでしょうか、わかってしまったのです。

私には、自分がそこに属しているにもかかわらず、自分とは関係がないと感じる精神的に弱い部分が、私の内的世界の境界を越えて、兄の病的な症状のなかにまるで魔法の如くに現われてくるように思えました。私が秘密にしている事柄を、兄は外に向かって表現してしまう。いったいなにが私を兄のような崩壊から踏み止まらせているのでしょうか。同じ両親を持ち、遺伝子もほとんど同じで育った環境も同じ。彼の眼の中には、私がそうなりたくはない、と恐れていたものが映っていました。彼の存在は、わたしが苦労して注意深く作り上げてきたこの秩序だった自分の世界も、まるで手の込んだ砂のお城が簡単に波にさらわれてしまうように、崩れ落ちてしまうこともありうるということを、毎日思い出させるものでした。

けれども、他人が私達は兄妹であることを知った時から、兄と私との間にある深い絆が苦痛を伴って思い出されてくるのです。それは自分が認めたがっている以上に、私が兄を愛しているということであり、彼を見捨てるということは自分の一部分を見捨てることに等しいということなのです。苦悩に耐えている兄の姿は、私の中にうずく棘の痛みを感じさせるのでした。

けれども兄を私の社交範囲に取りこむことは、ほとんど確実な失敗と思われました。兄は私の社交性を羨むと同時に、自分が見捨てられ、「慈善事業」のようにたまにしか受け入れてもらえないことに腹をたて、楽しそうな時間の可能性を、ことごとくつぶしにかかるのです。何もしゃべらず、ふくれっ面をしたり、私のボーイフレンドのかぶる帽子を走る車に投げつけたり、私の絹のスカーフで耳の穴をほじったり、公園であたりかまわず放尿したりする兄を愛することは難しいことでした。

兄をまきこんだ緊急事態に我が家が振り回され、彼のその日の気分が支配的になるにつれ、私は自分の健康に無関心になってきました。私の悩みは兄のそれに比べれば小さなもので、自分の喜びや成功もとるに足らぬものに思えるようになりました。私はより多く両親からの注目を渇望すると同時に、兄の、明らかに私よりもそれを必要とする状況を考えて、罪の意識を感じるのでした。つらく苦しい時には、自分も病気になれば両親の愛情をとりもどすことができる、と考えましたけれど、自分にはそれ(精神病になること)がたとえ愛を得るためでも高すぎる代償であると、分かっていました。

兄が最初に入院して数ヶ月たったある日、私は彼を見舞いました。坊主頭に欠けた前歯(昔あてもなくタイムズ・スクエァを徘徊していた名残です)そして、元気のない年寄りのような動作。兄はまるでホームレスの浮浪者でした。彼の眼は空ろで、そこには暗がりでヘッドライトに照らし出され怯える動物のむき出しの恐怖の表情が宿っていました。彼は哀れになるほどおとなしく、あたかも自分と私との境界線が分からないかのごとくに、私の発する言葉を鸚鵡返しするのでした。彼のこんな状態をみて感じる深い悲しみも、最後にはそこに湧き上がってくる恐怖が取って代わるのでした。彼が私の言葉や仕草をそっくり 真似することが、私の中に長いこと宿っていた恐怖、即ち私も精神分裂病になるのではないかという不安に火をつけたのです。兄に、すぐに帰らなければ、と云うと私の赤いジャケットの袖をつかんで彼はこう言いました。"君には僕が見えているのか?"

兄が発病してからの最初の数年、彼は病院を抜け出したり、治療薬の服用を止め、あても無くニューヨークやニューヘイブンなど都会の危険な地域を精神錯乱状態で徘徊したりするものですから、家族の毎日のリズムはしばしば混乱状態でした。自分たちの用事を中断して彼を追いかけては家に連れ戻し、病院へ帰るように説得する―そしてまた数ヶ月うちには同じことの繰り返し、こんなことをいったい何遍くりかえしたことでしょう。こんな予想もつかない激変に私達家族は巨大な渦巻きに翻弄される小さな船のようでした。私がこの緊急事態に巻き込まれた時、私には兄を救う力もなく、両親の対立(最善の方法は何か、こんなことになったのはどちらの責任か等)を和らげることもできず、その上に自分の人生の問題をかかえ、押し潰されそうになりました。私は家族が飲み込まれた渦の破壊力を感じ、少し距離を置かなければこの渦にとりこまれ、溺れてしまう、と感じました。自分を救うために私はこの船から脱出することにして、兄や家族とは離れて、自分の人生まず生きることを心にきめたのです。

今では兄が精神分裂病と診断されてから10年が経ちました。私はもはや兄と自分が同じ人物の裏表とは考えていませんし、二人の運命が絡み合ったままとも感じていません。知性"?が感性に身を委ねる深い部分で、私は兄のアンディとは違うことを理解しました。今は兄と恐怖心なしに接することができますが、哀しみは常にそこにあります。病気は慢性のもので完治はせず、私が彼に感じる哀しさは、私がまるで見えない鞄のように背負っている重荷なのです。

兄は現在、父と義母とともにコネティカットに暮しています。最後にそこを訪れたときには、彼は生と死のあいだをさまよう夢遊病者のようでした。彼は家族から離れて何時間も身体を前後に揺すっていました.片手に氷の入ったグラスを持ち、それを夢中になって吸っていました。氷の塊を口の中に転がし、それが解けて小さくなるまで待ち、その小さな氷の塊で舌をはさみ解かすのです。 解けた冷たい液体は彼の首をしたたり落ちました。グラスが空になると彼はため息をついて台所へ行き、氷を継ぎ足していました。時々彼のため息は深く、リズミカルなものになって、次第に大きく、まるで外にまでよく伝わる心臓の鼓動のように聞こえました。そして、2~3分ごとにまるで何かが聞こえたかのように、彼の唇に笑いが浮かびました。彼はそれが中断されたくないから話かけることもできない、と云っているようでした。

その日も、その日以前も、そしてその日以降も、私は愛する者を亡くした時に感じる、絶えることの無い痛みと切望をもって、兄の不在を寂しく感じ続けています。死者を哀しむことは苦痛に満ちていますが、究極的にはある種の平和な受容というものがそこにはあります。しかし、まだ生きている人の場合は、それが自分の目前に存在しているにもかかわらず手の届かないところに居るという意味で、想像を絶する苦痛を伴った寂しさと非現実感を生むものです。

私と兄との親しかった子供時代を想う時、あたかも違う場所と違う時間に別の二人に起こったことのように、記憶はうすれ、思い出はしばしば幻影的になります。
筆者について

アミ・S・ブロドフはフリーの文筆家で心理学と健康を専門に多くの雑誌に寄稿している。彼女はまた初めての小説を現在執筆中である。


↑このページの先頭へ
本ホームページのすべてのコンテンツの引用・転載は、お断りいたします
Copyright©Seiwa Shoten Co., Ltd. All rights reserved. Seiwa Shoten Co., Ltd.